○永仁の徳政令
1297年に出したのが、永仁の徳政令でした。時の執権は9代貞時です。
永仁の徳政令(「東大寺百合文書」原漢文)
一、質に入れたり、売買したりした土地のこと。
御成敗式目のきまりのとおり、地頭や御家人が買って得た土地のうち、
売ってから20か年をぎた土地については、売り主はこれを取り返してはならない。
御家人でない者や庶民が買って得た土地については、経過した年月に関係なく
売り主はこれを取り返せ。
一、利子つきの貸し金や利子つきの貸し米のこと。
甲乙の人々が、必要な時に利子がかさむにもかかわらず金を借りるので、富む者は
利益をいっそう増し、貧しい者はますますおちぶれてしまう。今後は貸し借りの
訴訟は取り上げない。たとえ幕府の命令書を持ってきて訴えても、訴訟は取り
上げない。
要するに、御家人については借金はチャラにするからというお話なのですが、これでは社会は混乱するばかりです。それに、一時的にはいいのですが根本的にシステムの改善ではありませんから、もう御家人に金を貸す人はいなくなります。
○悪党という新興武士勢力が現れる
鎌倉時代は農業技術がとても進歩しました。農業技術が進歩すると、同じ面積で今までよりも多くの収穫を得ることができるようになりました。こうして、農民は余剰生産物を持つようになります。現代風でいえば貯蓄が相当増えたということです。これによって、新しく名主や作人が増えました。
こうして経済力を付けた名主や荘官らが武力を持って年貢の徴収を拒否したり、領主に反抗したりするものが現れてきたのです。
非御家人である悪党(非御家人の武士集団)は、数千という兵を率いて幕府や荘園に討ち入るなど、反幕府反荘園領主の活動を行うようになりました。
有名な悪党としては、かの有名な楠木正成がいます。楠木正成は河内の国の悪党です。
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要するに農業技術の発達と共に、力をつけてきた農民がどんどん自立して自分たちの自治を要求するようになってきたと思えばいいでしょう!貨幣経済の発達が新しい勢力をどんどん生み出していったのです。それに対して、関東を中心とした御家人達は相変わらず自給自足の生活でした。こういうアンバランスが北条政権を崩壊に追い込むのです。