★★★北条執権が武家社会の伝統を創る★★★
鎌倉政権が重要なのは、後々の武家政治のひな形となるべく用意されたような政権であるということなのです。そういうモデルケースとして、鎌倉政権をみるといいと思います。
■鎌倉幕府は承久の乱から本格的全国政権になった
★初代執権ー北条時政
承久の乱といってもぴんと来ない方が多いと思う。「えーと、歴史によれば後鳥羽上皇が起こした鎌倉幕府に対する政権奪取作戦ということでしょうか!」 はいその通りですが、実はこの承久の乱というのは、幕府が勝ったから「乱」と呼んでいるのであって、もし幕府が負けているならば、歴史にもしはないのですが、「承久の変」くらいになっていて、本格的な武士政権の誕生は相当後になっていたかも知れないのです。
「承久の乱」というのは、これを契機に本格的な武士政権が誕生したという大きな節目になるのです。どういうことかといいますと、源平の大乱が鎌倉幕府の成立によって収まったといっても、それは結局関東を中心とした一定の支配地域で武士による自治政権ができた程度のものと考えていいと思います。頼朝の幕府は義経追討の名目を利用しながら、全国に守護や地頭の任命権を朝廷からもらったのですが、それは旧平家の所領の中での力でした。この折衝役の大任を委されたのが北条時政でありました。
こうして、守護、地頭の任命権を持ったのですが、それはごく一部でありました。
その証拠に、源平の大乱の後没収された平家の所領は500カ所くらいのものだったのです。要するに、鎌倉幕府というのは、日本の国土の中で関東や将軍の息のかかった一部の地域で確立された地域的な「武士の革命政権」ということがいえるのです。
※言葉の知識
守護ー国単位に決められた軍事指揮官・行政官である。
地頭ー荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。