源頼朝の死後、鎌倉幕府内部は政権の権力闘争が激しくなります。その中で勢力を伸ばして台頭してきたのが、頼朝の外威として力を付けてきた北条氏だったのです。
鎌倉幕府というのは、武家のためにできた政権ですから、幕府というのは関東の武士達にとってプラスにならなければならないわけです。それに、武士の生活や成り立ちについても詳しく知っていなければなりません。そういう中での突然の頼朝の死は、関東武士団に大きな動揺をもたらしたのは事実です。そこで、次期将軍の頼家では関東の武士達を十分に仕置きはできないとみて、有力御家人達で政権を補佐しようということになり、13人の合議制で集団指導体制が組まれました。
だいたい、集団指導体制というのは今でもそうですが、結局は権力闘争の温床になるわけで、ご多分にもれずこの集団指導体制の有力御家人の中で、梶原景時が北条氏によって滅ぼされました。梶原景時といえば、義経との確執によって頼朝公に讒言したとして人気はないが、なかなかの文人で教養があったとされています。その他頼朝の乳母の養子であった比企能員は、娘が2代将軍頼家に嫁いだことから将軍外威として権勢をふるいました。これも頼家の重病によって力を失い、その後頼家と組んで北条氏を滅ぼそうとして、かえって滅ぼされてしまった。
その後、北条時政は3代将軍源実朝を補佐する実質的な権力を持った執権職に就き権勢を欲しいままにする。実はこの北条時政の権勢欲はどうして出てきたのかというと、時政の後妻に迎えた「牧の方」が悪い女なのであった。時政をたきつけては、有力御家人を排斥して権力を得ようと企ててきたのだ。それが、ついには征夷大将軍まで自分の息のかかったものにしようと画策し始めたのだ。時政と後妻の牧の方の娘婿である平賀朝雅を源実朝を廃して新将軍にしようとしたのである。
※平賀朝雅
父は新羅三郎義光の孫の平賀義信、母は源頼朝の乳母・比企尼の三女。要するに、源頼 朝とは親戚になるわけだ。だから、新将軍という芽も出てくることになる。
こういう傍若無人ぶりを発揮している時政に対して、北条政子、そして時政の子北条義時は結束して、時政と牧の方を強引に出家させてしまい、隠居させて伊豆に幽閉したのである。こういう内部の攪乱状況は権門勢家を中心とした朝廷勢力にとって、「関東革命政権」を倒す絶好にチャンスに見えたのは当然のことであったはずである。
※言葉の知識
権門勢家ー権門勢家とは簡単に言い表すと権威があり、勢威もある政治的、経済的に有 力な勢力というところだろう。これら公家権門(執政)、宗教権門(護持)、武家権門(守 護)などがある。