■5代執権北条時頼は名君であったが、思慮深い作戦家でもある
合議制による政権の維持というのは、よほどルールがしっかりしていないと権力闘争だけが起こって皆共倒れになってしまうという矛盾をはらんでいる。北条家が執権を目指したときからこの問題はついていたといえる。そこで、北条泰時から4代経時、そして5代時頼と受け継がれた執権職をより強固なものとするには、名目上の将軍を立てた上で、執権のライバルを排除する必要がどうしてもあったと考えていい。そうしなければ、結局戦乱を招き起こす元になるからなのである。どちらにしても天秤の支点に位置しているような舵取りを執権職は余儀なくされているのである。
そのことを歴史的に知っている北条家は、4代経時の時に突然4代将軍藤原頼経の首をすげ替えてしまうのである。それで、頼経の子である頼嗣を第5代将軍にするのである。これは、将軍が政治が分かり始める年齢になると、北条家に不満を持つ者たちが集まり徒党を組むようになります。そこで、そういう政治勢力を形成させないためにも将軍を変えるというのが北条家の常套手段であったのです。
北条経時が病気で倒れた後を、第5代執権を北条時頼が嗣ぎました。
この北条時頼は名君といわれるのですが、何をしたのかといいますと、先ずは名越朝時(第3代執権北条泰時の弟)の子名越光時が謀反を起こそうとしたのを未然に防ぎ、光時を伊豆に流し、次には有力御家人であった三浦氏を滅ぼそうと画策をします。そして、三浦氏を挑発して、謀反の噂を鎌倉中に流します。
ところが三浦氏は、身の処遇を心得ていて、当主の三浦泰村はおごることなく、北条氏との協調に努め、幕府の政治にも大きく貢献してきたのです。
結局北条時頼は、言いがかりを付けて三浦一族を突然に取り囲み、三浦一族は500余人が全員自害をするという凄惨な道を選んだのです。こうして三浦一族を謀略で滅ぼし、次には、千葉一族も滅ぼして北条家は鎌倉幕府の中で盤石な独裁的な地位を築き上げました。
執権北条時頼は、絶対的な権力と強めると同時に様々な配慮も怠りませんでした。御家人達の訴訟を早く処理するために政治判断をする評定衆の下に引付衆という制度を作り、訴訟専門の組織を作り迅速な解決をしました。
その他にも庶民の救済策をとって、庶民を保護したりと善政をしいた。時頼自身は質素、堅実で、宗教心にも厚く御家人や庶民にも人気がありました。なかなかの知恵者であったといえるでしょう!
ここで、有名な鉢木の伝説を書いておきます。これは後世の作り話とは思いますが、それだけ時頼に対する信頼が厚かったということを物語っています。