勢いを得た鎌倉軍は京へ向かって進軍します。そしてわずか1ヶ月足らずで京を占領してしまいます。朝廷軍の敗北によって幕府は戦後処理をすすめ、後鳥羽上皇は隠岐へ、土御門上皇は壱岐へ、順徳天皇は佐渡へ流されました。また、上皇方へ味方した武士達はことごとく処刑されました。
このことは、庶民にとっては青天の霹靂です。臣下に当たる武士達が天皇を配流したのですから、これによって朝廷の権威は地に落ち、誰が天下を治めるかということが誰の目にもはっきりしたのです。
もっとはっきりしたことがあります。それは、この承久の乱によって幕府の統治範囲が日本全国に広まったということです。あの源平の大乱でさえ、平家から没収した所領は500カ所あまりでしたが、今度の承久の乱では、西国を中心に3000カ所もの所領が没収されたのです。この所領を幕府は武士達に恩賞として与えました。
◆ここで2代執権である北条義時とはどんな人だったのでしょうか?
北条義時の運命式をひもといてみたいと思います。
<北条義時の運命式>
22 12 25
15 35 20
28 23 30
<北条義時の流運>
12 14 16 10 12 14 18 12
1 11 13 15 17 11 13 15
いつでもそうだが、2代目というのはなかなか難しい立場に立つのだ。何故かというと、創業者でもなければ、そんなに実績を上げてきたわけでもない。ただ血統的に受け継いだというだけでは、複雑な武士団を治めることはできない。だから、当然2代目というのは、創業者型であってはいけないのだ。どういうことかというと、創業者というのは、どんなことでも過去の実績と築いてきた基盤があるから、ある程度自由がある。しかし、2代目というのは、いつも創業者と比較される中で経営をしなければならないから難しいのだ。
この義時さんは、親父の時政のように目的型でもなければ、人情型でもない。どういうことかというと、どちらかというと思索型といった方がいい。物事を深く考え洞察し、判断を下すといった武士よりも文人肌といった方がいいのだ。心霊運や本性からはそういう性格が表れている。ただ、身内に対しては、結構命令型で親分的な性格もあったのである。だから、姉の政子の助力もあるが、暴走し始めた親父を強制的に排除するあたりは指導力がある。