仕事運は、ちゃんと成果を形にして収めることができるので、それを実行する戦略性や作戦も持ち合わせている。人気運は外交能力が優れていることを表しているから、一途な親父が荒療治をしてきたことを、うまく静かに整理して、バランスをとる力があったのである。
まさに2代目としては、次世代に引き継ぐ橋渡しをしっかりできる、2代目型の運勢を持っているといえよう!これによって北条執権が確立されていき、鎌倉幕府という武士の日本統治が可能になったのである。
■3代執権北条泰時は、法治主義の出発点
北条泰時がどうして名君と呼ばれるようになったかというと、それは「御成敗式目」を制定したからに他ありません。御成敗式目とは何かというと、それまでの将軍による判断が絶対であったのをちゃんと明文化して、それに基づいて裁判を行おうというものです。要するに、政治・裁判に関する意志決定は将軍個人にあったのですが、それを今までの慣習としてあったものを文章にしてわかりやすくまとめたのです。
京都の六波羅探題として、朝廷の監視に当たっていた泰時ですが、承久の乱後の1224年北条義時が急病で死んでしまいます。そこで、京都にいた北条泰時は鎌倉に戻り3代執権に就こうとします。ここでも、鎌倉幕府内の有力御家人達の飽くなき権力闘争が終わっていたわけではないのです。
北条義時の急死は、後妻に入った伊賀氏の毒殺ではないかという噂なのです。事実伊賀氏は兄の伊賀光宗とはかり、泰時を排除しようとたくらんでいたんです。
伊賀氏と北条義時の間には一男一女があり、伊賀氏は息子の政村を次の執権とし、娘婿であった一条実雅を将軍にし、伊賀氏一族で幕府を乗っ取る計画だったのです。
この時も北条政子が中心となって伊賀氏に対抗し、京都から帰ってきた北条泰時をすぐに3代執権に就けたため、謀略は未然に防ぐことができました。しかし、問題の種がなくなったわけではありません。その後も伊賀氏はチャンスを狙って動き回りました。そこで、北条政子らが伊賀氏の排除を決めたために、伊賀氏はこれで没落してしまいました。