ンバランスは浮き彫りにされてしまった。その中でも、やはり北条高時が執権に就任すると病弱であった高時の後継をめぐってまたもや争いがおこりますが、最終的に北条守時で決着がつきます。
この高時の時には、様々な問題が露出するようになります。中でも皇統をめぐる争いでは持明院統と大覚寺統の2派の争いがあり、それに後醍醐天皇の討幕運動があり、それに悪党が荷担し、等々様々な問題が露出したのです。そしてついに鎌倉幕府が崩壊するときがきたのです。そこのところをwikipediaより抜粋します。
「1333年(元弘3年/正慶2年)に後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵すると、幕府は西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の名越高家と御家人の筆頭である下野国の御家人足利高氏(尊氏)を京都へ派遣する。高家は赤松則村(円心)の軍に討たれ、高氏は後醍醐天皇方に寝返って六波羅探題を攻略。関東では上野国の御家人新田義貞が挙兵し、幕府軍を連破して鎌倉へ進撃する。新田軍が鎌倉へ侵攻すると、高時は北条家菩提寺の葛西ケ谷東勝寺へ退き、北条一族や家臣らとともに自刃、享年31。」
あっけなく鎌倉幕府は倒れてしまうのですが、その最後の実質的な執権である北条高時はどんな人物だったのでしょうか?
こんなエピソードが語られています。
「北条高時は、田楽と闘犬を異常に好み、放蕩三昧の日々を送る。
実権は舅の時顕や執事の長崎高資が握っていたので、成長してからも酒色におぼれ、政務をおろそかにした。
高時の道楽の極めつけが闘犬でした。諸国に強い犬、珍しい犬はいないかと探し求め、ついには国税あるいは年貢として徴収しだす始末。また気に入った犬を献上した者には、惜しみなく褒美を与えた。
月に十二度も「犬合わせの日」が定められたといいますから、三日に一度は闘犬にうつつを抜かしていたというわけだ。」