要するにフビライの属国になれ!さもないと兵を送って蹂躙するぞという恫喝外交をしてきたのです。この国書は1268年1月太宰府から鎌倉へ、そして朝廷へと届けられ最終的な結論は「返事を出さない」要は無視をするというものだったのです。
そこで、朝廷は各地の神社にモンゴルから国を守るように祈祷をさせました。
また幕府はモンゴルの来襲に備え、異国警固番役というものをつくりました。
当時の日本人に異国の国が攻めてくるというのは、想像を超えていたように思います。
北条時宗は本来元寇に備えて、十分に配慮をしなければならないのですが、どうもあまり熱心ではなかったように思われます。それよりも、北条家の代替わりが行われるたびに起こる内紛を静めるのに一生懸命でした。
また、となりの高麗では、モンゴルに服属しない首都特別警護隊が江華島に立てこもり抵抗を始めました。これを三別抄の乱といいます。1271年この三別抄が幕府に援軍を求めてきたのです。こういう事態を全く理解できていないのが幕府や朝廷です。まさに外交音痴も甚だしいといわざるを得ません。無視したのです。
歴史にもしはないのですが、それでも残念でなりません。この時に様々な援助をしていれば、モンゴルの来襲をもっと効果的に防いだり送らせたりなどすることができていたのではないかと思います。
1274年モンゴルは準備を万端に整えて出発してきました。「大船300隻、軽疾舟300隻、給水用の小舟300隻」これだけの準備をして、日本に押し寄せてきたのです。総合計3万3千の軍勢です。文永の役の始まりです。
結局は、誰もが知っているようにこの軍勢は一日にして滅んでしまうのです。それは「神風」と呼ばれています。台風という人もいますが、この時期は旧暦10月末ですから、どう見ても台風というよりは冬の季節になります。
もう一つは、軍船が急ごしらえであって、粗雑であったということ。日本海の厳しい荒波に耐えられなかったのではないかということがあげられます。
しかし、ここで重大なことを忘れています。それはモンゴル軍の編成のことです。日本の御家人が頑張ったというよりは、モンゴル軍がその精鋭部隊をもってきていないということです。本来は馬によって敵地を怒濤の如く襲ってくるのがモンゴル軍の戦法なのですが、船では馬を運ぶことが困難だったようです。そこでほとんどが歩兵というわけです。それで何とか日本の御家人も闘うこともできたのではないでしょうか?