もう一つ日本軍が苦戦したものが武器にあります。弓矢はモンゴル軍が優れていました。射程距離200メートル。日本の弓矢は100メートルほどです。またモンゴル軍は火薬も使いました。戦法も全くことなり、一人の兵士に4人以上の集団で戦うという集団戦法です。日本は、先ず鏑矢を放ち、「やあやあ我こそは・・・」と名乗りを上げて戦いを一騎打ちで挑むというのが戦法でした。これでは、モンゴル軍にやられるのが当たり前です。
どのくらいモンゴル軍がひどかったかというと、対馬が攻められたときの島民の記録があります。それによると、
「男を見ると殺したり、生け捕りにしたりした。捕らえられた女たちを集め、掌(てのひら)に穴をあけて革紐(かわひも)を通し、船につないだ。このようなありさまであったから、助かった者は一人もいなった。」
やっぱり外国に侵略されるということは、こういう事なのだということです。
要するに文永の役は、度重なる幸運によって救われたということがいえます。しかし、その背景には御家人達の奮戦があります。そのことに恐れをなしてモンゴル軍は夜全員が船に戻って休んでいたといいます。そこに、冬の季節風なのか海が大荒れに荒れて、一夜にしてモンゴル軍は全滅してしまったのです。
朝廷は、このモンゴル軍の突然の壊滅は、天佑によるものとして自分たちが神社に祈願したからだと本気で考えていたらしいのです。当時の朝廷や貴族達の意識とレベルの低さに唖然とする想いです。
モンゴルのフビライはこれくらいのことではあきらめません。文永の役後、次は弘安の役がおこります。弘安の役がおこる前に、北条時宗はモンゴルの使者を二度も斬り殺しています。そして再びモンゴルの萬を持しての襲来。しかしここでも「神風」がおこり、日本はというより北条政権は救われることになります。
★何故「神風」は、2度もふいたのか?
この問題は凄く難しい問題なので、これが答えというわけにはいきませんが、とにかく何らかの天の意志が働いているとしか考えようがないのです。鎌倉新仏教の開祖である日蓮は、立正安国論の中で法華教を信じないと、外国から侵略されるぞと預言をして、北条時頼から配流の罪を受けていますが、ことはそういう問題ではないように思う。事実元寇が