★★わかりにくい室町幕府をわかりやすく・・★★
室町幕府というのは、昔から学べば学ぶほどわかりにくくなる政権です。ここには足利尊氏のはっきりしない態度や政治体制の作り方が明確でなかったり等があげられますが、何よりも分かりにくくしている点は、ここに朝廷の後醍醐天皇が関わりを持ってくることなのです。
もし、鎌倉政権内部の権力争いで足利氏が権力を奪取し新たな政権を打ち立てたなら、それはそれで話は分かりやすくて良いのですが、朝廷の権力争いがここに加わって話をややこしくしているのです。そこで、室町幕府誕生の「始まり物語」を書いてみて、そこから室町幕府がどんな政権であったのかを考えてみることにしましょう!
◆ 室町幕府始まり物語
★鎌倉幕府が崩壊したのは、朝廷の権力争いのせい
この話を進めて行くには、遠因というのがあります。それは、第88代後嵯峨天皇の話になります。後嵯峨天皇には3人の息子がいましたが、長男は鎌倉将軍になりました。次男と三男が相次いで天皇になるのですが、後嵯峨天皇は遺言の中で、「弟の亀山天皇の子孫に皇統を嗣がせなさい」というような遺言を残したのです。
そこで兄と弟の喧嘩になったのです。
弟の亀山天皇は大覚寺統(大覚寺を復興しそこに住んだから)と呼ばれ後の南朝方になります。、兄の後深草天皇は持明院統(廷内に持明院という持仏堂を立てたから)と呼ばれ後の北朝になりました。
そこに仲裁に入ったのは鎌倉幕府です。結論は、10年をめどに皇位を両統で継承するという仲裁案でした。持明院統(後の北朝)から2代続けて天皇がでましたから、次は大覚寺統(後の南朝)からも2代続けて天皇を出すことができます。そこで、本命の天皇になる後二条天皇の息子の邦良親王が成人するまでということで、ピンチヒッターで後二条天皇の弟の後醍醐天皇が出てきたわけです。ピンチヒッターですから、いずれ本命の天皇に譲位しなければならないわけですが、自分はいずれ廃位されて治天の君(政務の実権を握る上皇)にもなれないという憂き目なのです。