★君臨すれど統治せず
実際に彼は面白いことを室町幕府から始めたのです。それは鎌倉幕府までは、将軍に形だけとはいいながらも全権がありました。
足利尊氏は、政務を弟の直義に任せ、自らは武士の棟梁として君臨したのです。これは、私たちもどこかで聞いたような台詞です。「君臨すれど統治せず」明治憲法下の天皇のような考え方です。
尊氏は「自分は世を捨て、今生の果報は全て直義に・・・」といって、好きな田楽見物に興じていたらしいのです。
山のように積まれる付け届けをその日のうちに人にやってしまい、夕方には何もなくなっているというような豪放磊落さを見せていますが、これも彼の親分型の性格の一部分に過ぎません。
実はこの問題は大きな波乱要因を持っているのです。尊氏は棟梁としていいのだけれど、その下にいて実務を司る人にとっては、二人のつかさがいれば当然内紛が起こるようになるのです。弟の直義と足利家の執事である高師直の対立が鮮明になってしまいました。
★1350年・観応の擾乱(かんのうのじょうらん)
ここに観応の擾乱(かんのうのじょうらん)といわれる権力闘争が起こってしまったのです。いわゆるタカ派とハト派ということになるのでしょうか?軍事を司り、数々の武功をあげてきた高師直は武士の実情の代弁者でありタカ派といえるでしょう。土地の訴訟問題で公家が武士と荘園の管理の問題でぶつからないように調整をしているのが直義であり、調整役としてはハト派といえるでしょう。この二つの派閥が結局武力衝突することになるのです。
結局直義一派は高一族によって、その権力を奪われて直義は出家をして政務から離れるのですが、尊氏の息子で直義の養子になった直冬は九州にて勢力を拡大していました。高一族に担がれていた尊氏は、直冬を討とうと軍をすすめますが、その間に直義は都を出奔し高一族を討つために軍をおこします。今度は足利直義は何と南朝方についてしまいます。
この戦では、高一族が敗北して高一族は滅亡します。