◆ 足利尊氏という人
★足利氏のエピソード
足利家の伝説には、源の八幡太郎義家が残したという願文がある。「自分は七代子孫に生まれ変わって天下を取る」というのだそうだ。そこで、その七代目の子孫である足利家時は自分の代では達成できそうにもないから、自分から三代後の子孫に天下を取らせてくださいといって、先祖の八幡太郎大菩薩に祈願し自刃したというのです。
そういうこともあって、足利高氏は自分こそ天下を取る人物と考えていたかというと、実際はそうではなくて、足利幕府を創立して建武の式目を発表してからこの願文を見たという話も伝わっている。『難太平記』には、実はこの置文が動機となって足利高氏の挙兵につながったという話になっている。いずれにしてもこの足利高氏が、建武の新政を境に後醍醐天皇の諱をもらって、尊氏となって大きな変化を遂げている。そのことを、運命式から観てみたいと思います。
●建武の新政がなるまでの足利高氏の運命式
足利高氏は1305年に生まれて、1319年に元服するまでは、又太郎といいました。高氏の一時は北条高時から一字をもらったものです。元服してから1333年建武の新政の時には、28才になっていたと思います。この間の足利高氏の運命式はどうなっていたのでしょうか?
<足利高氏の運命式>
18 14 24
11 28 17
21 14 21
1331年後醍醐天皇が笠置で挙兵をして、鎌倉幕府は高氏に派兵を命じました。この時に高氏は、父貞氏が没したこともあり、派兵を辞退しようとしましたが妻子を人質に取られた高氏は出兵せざるを得なかったのです。これが契機となって高氏は幕府に反感を持つようになったのではないかともいわれています。
そして、隠岐の島に流された後醍醐天皇が再び脱出して挙兵をすると、後醍醐天皇の綸旨を受けていた高氏はついに決意をして反鎌倉幕府の兵を挙げたのです。この時に妻子は人質に取られていて、嫡子千寿王(後の義詮)は鎌倉を脱出し新田義貞軍に参加して鎌倉に進軍しています。側室の竹若丸はこの混乱の中で殺されています。