この時、直義派の武将達が尊氏の元へ挨拶に現れたときのこと、尊氏は「降参人が何をしにきた」と一括したそうです。挙げ句の果てには「師直殺害の犯人を死罪にせよ」とわめきたてたというエピソードがあるそうです。
これなどは、担がれて負けたにせよ、自分が将軍であることと自分が一番であるという強い自負心の運命式の姿そのままがそこにあったといえそうです。
今度は尊氏が直義を討つことになる。それと気づいた直義は都を出奔し、鎌倉へ走りました。尊氏は直義・直冬を追討するための綸旨を南朝方からもらうために、南朝と交渉し今度は何と尊氏が南朝に降伏してしまったのだです。そして直義を滅ぼすことに成功します。
その代償は大きく、南朝方を元気づけてしまいました。
このことで、正平一統の和議案が出され、南朝方によって北朝は排されたのですが、南朝方の武士勢力が攻め入り、一時期鎌倉や京都から尊氏勢力は追い落とされてしまいます。そこで、尊氏勢力は正平一統の和議案を破棄し、再び京都と鎌倉を奪還しています。
こういう内部の争いという戦乱の中、足利尊氏は54才という年齢で病死してしまいます。
★足利直義と足利高氏は兄弟仲はよかった
足利高氏と足利直義は共に手を携えて、天下取りに奔走してきた。高氏だけでも天下取りは難しかっただろうと思います。直義の補佐があったからこそ難しい局面を乗り切って政権を確立することができるようになったはずです。それなのに、何故尊氏は直義を追いやるようなことをしてしまったのでしょうか?最後は彼を追い詰めて毒殺か自刃させたといわれています。この辺をみることも重要なことです。何故ならば、兄弟という関係を考えてみたときには、いつでも仲良くということではないからです。どこかで独立して一個の主になっていく関係がうまくバランスをとるというのは、歴史的にみても難しいことだからです。そこに利害が絡めば尚更個人の感情だけではすまされないことが多くなってくるからです。そこらあたりの教訓を見つけることができれば面白いと思います。
<足利高氏の運命式>
18 14 24
11 28 17
21 14 21
<足利直義の運命式>
27 14 22
20 35 15
28 21 28
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