観応の擾乱
足利幕府ほど混乱の中で複雑な出発をした幕府も珍しいのです。この「観応の擾乱」というのは何かというと、足利尊氏の姿勢である「君臨すれど統治せず」という姿勢から二頭政治と呼ばれ、弟直義と足利家譜代の被官で、高師直との対立が激化し、足利家内部の争乱がこれに加わることになるのです。
この内部争乱に、南北朝の勢力が入り乱れることになるのです。
こうなるともう、戦国時代といってもいいのです。
高一族が滅んでしまうと、ここに足利将軍家も巻き込まれて、弟直義一派との兄弟間の熾烈な戦いが行われることになります。ここで、足利家は北朝をたてていたのに、弟の直義派の勢力が大きくなると、これに対抗するために尊氏と義詮は何と親子そろって南朝に降伏してしまうのです。こうして、北朝が持っていた三種の神器を南朝に私、南朝勢力によって皇統をまとめる案が元号を正平一統にするということで和議がなり、尊氏は義詮を残し、直義派の掃討に出発したのであるが、これを機に南朝方の武将が京都を占領する動きにでたために、正平一統を破棄し京を脱出したのです。これも義詮の働きです。
ここで重要なことは、複雑な内乱状況を意味しているのではなくて、この過程で地方の守護に半済令が出されたことであった。
半済(はんぜい)は、室町幕府が荘園・公領の年貢半分の徴収権を守護に認めたことを指す。これを契機に、守護による荘園・公領への侵蝕が本格化し、守護領国制・守護大名の誕生へとつながっていくようになるのです。
ここに戦国時代への萌芽が見られます。
足利義詮は、父尊氏が1358年に死去すると征夷大将軍に任命されます。この義詮の治世の間は、南北朝の争乱は収まらず、相変わらず足利家の内紛もあり不安定な治世であった。しかし、尊氏が残したまがりなりにも幕府体制は、義詮が相続し政治的には尊氏の名声の陰に隠れながら守勢の政治に徹して、徐々に南朝勢力を排除しながら基盤を形成していった最も重要な時期であったといえるのです。その義詮は、
1367年(正平22年/貞治6年)に、側室の紀良子との間に生まれた幼少の嫡男義満を細川頼之に託して、病により死去します。享年38でした。義満は11才の若さでした。
この細川頼之によって、足利義満は帝王教育を受けるのである。1368年正式に義満は将軍に任命されます。
義満の非凡さは次のようなエピソードにもあらわれています。
「摂津の国に泊まった際に、その場所の景色が良い事が気に入り、「ここの景色は良いから、京都に持って帰ろう。お前らが担いで行け」と家臣らに命じ、家臣らはその希有壮大さに驚いたという。」
義満の代になってやっと、義満を補佐する管領職など身内の勢力争いが一段落し、南朝勢力も徐々に衰微していったのです。
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