貴族達が不労所得のように自分たちが苦労して得た財産を昔からの権威だけで収奪していく。忌々しく思っていたのは、武人だけではないのです。農民もそうだ。だから、高師直のように、「寺社の荘園などは横取りしてしまえ」などと、息巻く武将までいたのです。
こういう時代的な雰囲気が当時の武家社会には充満していたといっていいでしょう!
そして、彼の愛情運は誰よりも愛されたい運勢を持っているのです。だからこそ、愛されてこそその力を発揮できるというところがあるのです。
★足利義満の天下取りの計略!
動機は何か?
後醍醐天皇の逆をやってのけようとしたのだ。武士こそが本当にこの国の支配者になることができ、それこそが国の実情に合っていると考えていたのだ。それが当時の武士の心意気であったに違いないと思われる。
@南北朝が鼎立している異常さを解消しなければならない。
このことを、義満は南朝方の後亀山天皇に話を持って行った。南朝はこの時形勢は著しく不利だったので、
「皇位を象徴する三種の神器は北朝の後小松天皇に渡し、皇位も譲っていただきたい。その代わり次の天皇は南朝からでていただくことにします」
という言葉にのって、1392年南北朝が統一されたのだ。しかし、義満は南中から次の天皇がでるということを認めなかったのです。いわゆる裏切りだ。でも、義満にも言い分があります。南北朝という異常事態を招いたのは、後醍醐天皇の独裁的な政治と両統から天皇を出すという秩序を一方的に破ったことからおきたものなのだ。だから、今更南朝に皇統を渡す気はないというのです。
どちらにしても、こうして日本の国の異常事態は義満の知恵によって収束されたのです。
その後の南朝は悲惨です。後亀山天皇は吉野に逃亡し徹底抗戦を叫びますが、既に大勢は固まってしまっています。無意味です。
こうして南北朝の争乱を収束させた力を持って、天皇家に大きな影響力を持って国政を自由にしようとしたということがいえます。
A後醍醐が天皇親政という名の下に絶対王政を施行としたように、自分がこの国の絶対王政をつくろうとした。 |