武家政権の目的は、結局は貴族という不労所得層を排除して、無意味な権威を廃止し、実質的な国の運用を求めるということにあった。
その過程で、貴族の権威は民衆に対する自分の社会的な地位を向上させる目的で利用をした。
そこで、この当時隣の国は「明」になっていた。そこで、明国に朝貢をして、日本の王として認めてもらい、明貿易をさかんに行ったのである。ここからはいる利益は、莫大なものがあったのです。これを独占しました。中でも朝貢をして臣下の礼をとったことで明の皇帝が気をよくしていっぱいお金を落としてくれたことである。この金がすごかったのです。さすがに知恵の義満です。
この金で北山の別荘を建てた。今の金閣寺です。
この規模が凄まじい。敷地165万平方メートル、うち92万平方メートルが庭園、中央に7千平方メートルの池をつくり、ここに三層の楼をつくり、全体の漆の上に金箔を貼り、屋上に鳳凰を羽ばたかせたのです。これは、天皇よりも偉いぞということを暗に示しているのです。何故かというと、鳳凰は「聖なる天子が世に出現するという証明」なのです。
だから、これは道楽でつくったのではありません。戦略があるのです。自分が聖なる天子であるということを内外に示すのです。
もう一つ義満が作ったものがあります。それは、禅宗の寺「相国寺」です。相国とは中国では、太政大臣または左大臣を示しています。
この相国寺は京都御所のすぐ隣なありました。そこに壮大な7重の塔を建てたのです。高さは109メートル。ここからは、京都御所が丸見えになったのです。
ここにも義満の朝廷に対する心理的な戦略があります。
こういう事をしてから、後小松天皇を北山の別荘へ呼んだのです。北山の別荘への後小松天皇の行幸です。(後小松天皇は義満によって天皇にしてもらったようなものです)
この時には、1408年のことですが御殿13棟、進取の桜並木を用意し、路面には五色の砂と金銀の造花をまき、二〇間ごとに床几を置き、その上に虎の皮を敷き、銘香を焚いてお迎えしたのです。
全ての建設費用が約300億円というからすごいのです。これを全部義満が用意したのです。
このために、激しい猟官運動をやって太政大臣になると、半年後にはやめてしまって、出家してしまうのです。そして、自分の妻である日野康子に准母(天皇の母代わり)の称号を勅許させ、こうして、後小松天皇の行幸を願ったのです。これも戦略なのです。
その次に最愛の次男、15才の義嗣の元服式を天皇にやってもらい、その時の行幸は上皇訪問の形をとり、元服式は親王と同様白昼の儀で行われたのです。