った。翌3年も同じような天候が続いた。米作は平年の2割程度に落ち込んだ。鷹山(治憲)が陣頭指揮をとり、藩政府の動きは素早かった。
・ 藩士、領民の区別なく、一日あたり、男、米3合、女2合5勺の割合で支給し、粥として食べさせる。
・ 酒、酢、豆腐、菓子など、穀物を原料とする品の製造を禁止。
・ 比較的被害の少ない酒田、越後からの米の買い入れ
鷹山(治憲)以下、上杉家の全員も、領民と同様、三度の食事は粥とした。それを見習って、富裕な者たちも、貧しい者を競って助けた。
全国300藩で、領民の救援をなしうる備蓄のあったのは、わずかに、紀州、水戸、熊本、米沢の4藩だけであった。近隣の盛岡藩では人口の2割にあたる7万人、人口の多い仙台藩にいたっては、30万人の餓死者、病死者が出たとされているが、米沢藩では、このような扶助、互助の甲斐あって、餓死者は一人も出なかった。
それだけでなく、鷹山は苦しい中でも、他藩からの難民に藩民同様の保護を命じている。江戸にも、飢えた民が押し寄せたが、幕府の調べでは、米沢藩出身のものは一人もいなかった、という。米沢藩の業績は、幕府にも認められ、「美政である」として3度も表彰を受けている。
◆鷹山公(治憲)の優しさ
正室である前藩主の次女(同母の姉妹は夭折)で2歳年下の幸姫(よしひめ)は脳障害、発育障害があったといわれている。彼女は1769年(明和6年)に治憲と婚礼を上げ、1782年(天明2年)に30歳で死去するという短い生涯であった。
しかしながら治憲は邪険にすることなく、女中たちに同情されながらも晩年まで雛遊びや玩具遊びの相手をし、ある意味2人は仲睦まじく暮らした。重定は娘の遺品を手にして初めてその状態を知り、不憫な娘への治憲の心遣いに涙したという(現代の観点からは奇妙に感じるが、家督を譲ってからは米沢に隠居し、江戸藩邸の娘とは幼少時から顔を会わせていないのである)。
35歳の若さで隠居し、実子がいたのに家督を前藩主・重定の実子・治広