●鑑定一言コラム
■鑑定一言コラム集は、姓名鑑定をする立場の者の姿勢や姓名鑑定に対する基本的な考え方をストレートに述べています。
皆様方の何かの参考にしていただければと思います。
●鑑定一言コラム
●姓名判断・鑑定・一言コラム 命名 改名 相性 全般
●姓名判断・鑑定・一言コラム 命名 改名 相性 全般
■一言コラム 命名編
◆命名というのは、親の願いが相当はいっていて、その愛情が命名というかたちになって表れる。しかし、実はそればかりではないのだ。そこには天の意志が働いていると見るのである。だから人間が精魂傾けてつけた名前でも、そこには思いがけない要素が入り込んだりする。そのことが命名された名前に大きな力を与える。だから命名によって人それぞれが自分のミッションを持つことになる。
◆親子問題で事件が多い。子が親を殺害してしまうケースだ。またその反対もある。いったい何がそうさせるのか?一朝一夕にそうなったのではあるまい。親子の繋がりに異変が起きているのだ。赤ちゃんに話しかける親が少なくなった。情動が人間の理性を活発にさせることを考えると、親の方がそういう繋がりを重視しなくなったことこそ問題だ。そういう中で命名は親と子の心情的な繋がりを築く最も近道だ。運命式の中には親子の繋がりをしっかりと築く秘密があるのだ。
◆伊達政宗公の名前は、先祖の中で最もすぐれた人の名前にあやかって命名された名前であるのだそうだ。そういう功績を持った人の名前にあやかって命名するというのは、実はそういう運勢を相続するという意味も含まれる。それでは、ただ名前をあやかったら皆そのように素晴らしくなるかというと、そんなに簡単なものではない。そのような運勢を顕現させるほどの努力と環境整備なくしては実現しない。幸い政宗公はそのような人的な環境に恵まれていた。
◆命名をするのに、素晴らしいバランスのいい運命式を考えたとしよう!そうすればその人は成功間違いないのかということになる。預言と同じだ。それ自体が素晴らしいからといってその通りにはならない。何故かというと、その素晴らしいバランスを実現する内容を自分が身につけなければならないからだ。命名にはそういう条件がついているということを忘れてはならない。
◆宇宙航空研究開発機構は23日、内之浦宇宙空間観測所(鹿児島県肝付町)で、太陽観測衛星「ソーラーB」を搭載したM5ロケット7号機を打ち上げ成功、「ひので」と命名された。 名前でイメージがわいてくる。だから、イメージで名前を付けたいのが人情なのだが、そのイメージと運勢とは必ずしも一致しない。そこに落とし穴がある。だから命名は、運勢を考えて、その次にイメージを考慮すべきである。そうしないと、名前負けということが出てくる。
◆命名についてはいつもひとこと言わせてもらうことがある。それは「名前に支配されるな」ということなのだ。名前に支配されれば、自分が名前の奴隷になってしまう。それではいけないのだ。確かにいい運勢の名前である必要はある。しかし、その名前を活用できるマスターになって欲しいのだ。それでこそ、命名の価値が出てくる。名前負けしないというのは、名前の活用法を知っているということだ。
◆命名ということでは、人も物もその難しさに変わりはない。ものの命名はその商品の寿命を暗示することになる。愛される名前かそうでないかで、決まるということだ。物でさえそうならば、人の命名は一生という長い期間にわたって愛されるという名前にならなければならない。そういう名前の運命式のバランスを取るさじ加減というものは、いくら悩んでもこれでいいということはないのだ。だから、命名というのはすばらしいことでもあるのだ。
◆命名では一番大切なことはバランスなのだ。そのバランスというのはそれぞれの運命式の数字のバランスということだ。強すぎても弱すぎてもいけない。ちゃんと主体性があって、それでも周りとの相対的なつながりをちゃんと持てるようにというのが必要なのだ。そう考えていくと、最後には本当に悩むことになってしまう。この子にとってベストは何か?真剣勝負だ。
◆命名するときに様々な条件を付ける人がいる。そこには様々な思い入れがあるはずだから、それはそれで尊いはずだ。ところが、そういう条件というのは実は制約なのだ。だから、個人の運勢を縛ってしまっていることに気がつかない。親としてはより幸せに、素晴らしくと願っているのだが、それが可能性を狭めてしまっていることに気がつかない。命名の時は、命名される赤ちゃんが主体であるということを忘れてはならない。
◆皆さんいい名前をつけたいと思っている。当たり前である。自分の子どもや孫にいい名前をと考えるのは当然の人情だ。ところで何がいい名前かというと、子ども自身の人生にとっていい名前であらねばならないということだ。そして周りの家族は皆その子どものサポートになっていなければならない。折角の命名を助けてあげる。そういう心構えに周囲がなっていなければ、命名される子どもがかわいそうだ。
◆命名というのは、やればやるほど霊的なものだという実感がする。非常にスピリッチャルなところがあるのだ。どちらかというと、修行僧のような気分になる。どこかで自分に邪念が入れば、やってることがちぐはぐになってしまい、導かれないのだ。運命式が立体になって浮かび上がってこないのだ。スピリッチャルが高いときは、運命式がパノラマのようにドラマになって展開する。そういうときは、心の中に空海に来ていただくようにする。
◆命名では、できる限り条件を出さない方がいいのだ。もちろん願望は皆いっぱいあるからそれはもっていた方がいい。しかし、基本はよりよき運命式を選ぶことのできるように最大限の可能性を持てるようにすべきなのだ。それでも、親子の相性などを観ると、そこから道筋はできてしまうこともある。だから、可能性を広げるようにしてあげることも親の愛情だ。
◆命名するときは、男の子は男のらしく、女の子は女の子らしく、そして家族との交流を考える。最近は女性も社会進出が激しいから、女の子でもちゃんと仕事運を考えて、バランスをとるようにしなければならない。すると男の子は、そういう女の子とは違った意味で、男の子らしく頑張れるようなバランスにしなければならないから、そういう相対的な関係をちゃんとつくることが大変だ。
◆命名を侮ってはいけない。命名を侮ることは運命を侮るに等しいからである。神は最初の人類のアダムを土から造って、命の息を吹き入れられたとある。命名とはまさに命の息をわが子に吹き入れるようなものなのだ。その時こそ子供と真剣に向き合わなくてどうする。命名には親のエゴを入れてはいけないのだ。
◆命名するにも様々な要素がある。格数だけを考えればいいというものでもない。また、周りの人間環境でも付けられる名前とそうでない名前が出てくる。そういう複雑の過程の作業から命名は生まれてくるのだが、最後は音の問題になる。やっぱり名前は呼びやすくて親しまれる方がいいに決まっている。軽すぎてもいけない。重すぎてもいけない。音の陽陰のバランスはとても大切だ。
◆命名というものは、人間や物でいうならば人や物の「器」を意味する。その器の種類や大きさ質のレベルといったことが、器の価値を決定する。茶道の茶碗がいい例だ。ただ茶を飲むという行為を文化や芸術のレベルにまで押し上げたのは、日本人の特技だ。その茶碗に価値を与えたのも利休という命名者がいたからだ。子供の命名にいのちの息を吹き込むのは、親のなすべき一番の仕事になる。
◆命名するときに誰もこの子が将来離婚するかも知れない。などと考える人はいない。当たり前だ。この将来と幸せを念じるのは親の自然な情の発露だ。その動機は素晴らしい。問題はそれを現実化するプラセスを怠けてしまうことから始まる。名前に願いを託すと同時に、その子供の運命式にあった育て方をしてやらねばならない。欲しい物を与えないで嫌なものばかり与えていれば心がねじ曲がってしまうのと同じだ。
◆命名というのは、すごく人間的なことなのだと思う。多くの生物は親や子供の識別には、ある仕組みが隠されている。そのIDとなるのが、臭いや声なのだ。小さいころにインプリンティングされたことが識別のIDとなっている。人だけは、親子を名前を呼び合うことや字を書くによって確認しあっている。だから命名の背後には、人間の宇宙が隠されていて、その宇宙のつながりを命名は表現しているのだ。
◆命名するという親の立場になってみれば、迷うことしきりないなるのは頷ける。何故ならば、これで子供の運命だけではなく自分の運命までも影響を受けるからだ。そう考えると決断できないのも当然なのだ。秀吉は豊臣になるまでは勢いがあった。名前は大きな力を持っているからこそ、「天使の占い」は命名に真剣になる。
◆命名するときは、親も真剣になるが、それ以上にどんな名前がつくか周りの方が興味津々なのだ。その時の気持ちや雰囲気をしっかりと記憶の中に保存しておいて欲しいのだ。それが後から役に立つ。子供にどんないきさつで名前が決まったのか!それほど、皆が一生懸命であったということが、子供には大きな自信と価値を与えることになるのだ。そういうドラマを持たないと人生ではない。
◆命名にはドラマがある。そういうドラマが大切なのだ。何もなく平凡に命名されたというよりも、自分の名前には命名に至るまでの「物語」があるというのだ。それだけで自分という人間に大きな価値性が賦与されるのだ。そういう物語があると、それによって自分という人間に自信が出てくるようになる。
◆命名に対する親の想いは、自然と男の子は男の子らしく、女の子は女の子らしくという漠然としているが大きな願いに満ちあふれている。事実子供は自然の摂理に導かれて育つ。大きな親の想いが命名の祭に、仕事や結婚、人間会計など様々な願いに細分化されてくるのだ。その湧きいずる自然な想いこそ尊いものなのだ。その中心ポイントをずらしてはならない。
◆人生には転換点というものがある。歴史に転換点があるのと同じだ。それは人によって異なるのだが、国も人も共通の事柄がある。それは、それまでの自分の生き方に行き詰まりを感じているということだ。別にすぐに問題があるわけでもないのにだ。そういうところに自分を一新する何かを見つけようとするエネルギーが生まれる。改名というのはそういう一新するエネルギーを持っている。
◆命名に夢はなくてはならない。同時に、命名にはドラマも必要である。命名にドラマがあるからこそ、命名に価値が生まれる。橋の下から拾われたので、拾雄と名づけられたとしよう!それでも、そこには養い親との出会いの運命があったではないか?それが生へとつながる大きなチャンスになった。そこに価値がある。命名でこんなふうに親は努力して悩んだ。それは命名を通して子への愛の伝達という価値に変わるのだ。
◆名前の持つ面白さは、その名前が一つのイメージを形成していくというところにある。そして、そのイメージが実は人間を創造するということが面白いのだ。だから、命名にはちゃんとしたイメージを持つことができるようにすることが必要だ。特に、育てる親が子供にイメージを持つことが子供にとっては原点になる。
◆命名というのは、様々な背景を考えながらされるものなのだ。一口に命名といっても、そこには万感の想いを込めた親たちのドラマがある。そのところを理解していないと、命名には魂が入らないことになる。そうであってこそ、命名はその子供のバックボーンになるのである。
◆命名では一番気をつけなければならないことは、子供の運勢ももちろんだが、親子の愛情交流にある。どんな良い名前と思っても、その名前が良い運命となるかどうかは、自分の名前の運用次第だからである。その自分の名前の命名の力を発揮させることができるかは、周囲の愛情交流にかかっている。
◆命名にも時があることをご存じだろうか?ある意味で名前を付けるということは、親の方がそういう感性を鋭くしているときでないと、子供とのつながりをしっかりと作れる名前を付けることができないのだ。だから自分のアンテナを高く張っていると、先祖や様々な働きの中で、子供にとって一番よい名前を選択することができるのだ。
◆命名では様々な要素が考えられることになる。親としては当然のことだ。占い的には吉の数字はあるのだろうか?凶数は入れてはいかんとか!である。特に家族の意見がバラバラの時は大変だ。一家の主人やお祖父さんお祖母さんの意見まで入れると何ともまとまらなくなる。そういうときにこそ、命名される名前は誰のものでもなく子供自身のものであることを忘れてはならないのだ。
◆命名はその人の宇宙の世界を決めるようなものだ。しかも自分が自分の宇宙を運用することができる。それが命名によって自分の運命式を知るということなのだ。だから、命名はそれだけ人生の価値を決める重要な儀式ということが言える。
◆命名するというのは、ちょうど人間が人間として出発するような儀式ではないかと思う。命の息吹を吹きいれるようなものといえる。だからこそ「命の名」と書いて命名ということになるのだ。だからこそ親の方は、命を吹き込むような努力が命名には伴うことになる。それで始めて子供の方も出発が出来るのだ。
◆命名するときは、親の方はいろいろな想いを持つものだ。その子供に対する夢や希望が膨らんで大きな欲望を持つのも親に違いない。しかし忘れてならないことは歩む人生は子供が主体であるということだ。その子供のために環境を設定してやるのが親の仕事だ。そう考えれば命名は、その子の未来の可能性を賦与するということに他ならない。それは親だからこそ持っている権限なのだ。
◆命名というのは、不思議なもので自分で一生懸命考えると、どういうわけか自分の持つ世界しか名前に反映しなくなる。具体的には、親子関係が悪かった過去を持つと、自分の子供との関係もよくなくなるような名前ばかりが思いつくのだ。だから、昔の人はそういうことをよく知っていて、自分よりすぐれた人や命名のプロにしてもらったものだ。
◆命名や改名で必要なことは、どんな人になりたいか?どんなことをやりたいか?などと言うことをはっきりさせなければならない。とにかく具体性がなくてもよい、しっかりとしたイメージを持つことが良い。あれもこれも何でも運勢がよくなればなどという欲張りは、結局は何も得られないまま終わってしまう。運命式は人生に何かを与えるが、運営する人がよこしまであれば、その人の人生を奪うかも知れない。
◆命名することは、ひとつのプログラムを組むことと同じなのだ。しかも非常に自由性のあるプログラムだ。何故かというと、そのプログラムを運用するのは当の本人なのだから!どんなに優れたプログラムでも、それを使う人が間違えば、そのプログラムの価値はなくなってしまう。自由性があるというのは、自分の命名運命式の使い方次第で、その出力を大きくバージョンアップできるからなのだ。
◆命名権というものは、親にあるのだが、その親は何の権威があって命名するのかということだ。
昔の元服式で、命名をするときその烏帽子親がその後の責任を担うということになる。だから、命名というのは責任を担うことの表明でもあるのだ。
命名することで親は子供の生き方にも責任を持つということがいえる。
◆命名をしていくと、大きな意味でその人の生き方が見えてしまう。そこが運命式を見るときの怖さでもあるのだが、どんな環境と状況がそろえば、また何を学べば道が開けるかなど、必要なアイテムもわかる。しかし、家庭の人間環境は変えられないのだ。そこにある程度の限界はあるのだ。それでもいい運命式は本人が気づけば大きく化ける可能性はいっぱい持っている。だからいい命名をいっぱいしてあげたいものだ。
◆命名というのは人に与えられた特権であると思う。その名前の持つ意味や運勢によって、その命名された人のカテゴリーが決まってしまうことになるからだ。だから特権には、それだけの責任と恐ろしさがあることも事実なのだ。
でももっと重要なのは、命名された人が自分の名前はどういう意味や運勢を持っているかということを知っていることだと思う。
何故ならば、知って自己を創造することと、知らないで自分を間違って創ってしまえば、それは取り返しのつかないことになるからだ。
◆命名というのは、ちょっと考えてみると実は事業計画書みたいなものだね!
それも成功するだろうという「絶対的な信仰」が親の方にはある。
それは、愛情という自分の持つ核心持っているということなのだが、愛情という塊みたいなものはあっても、それを見える形にするのはちょっとばかし研究がいるかも?
◆命名の本質は、一言で言えば個性の抽出ということなのだろう!「人と違う何か、人の持っていない自分の世界」そういうものをつくらせてあげたい。それが人の持つ願望である。「ちがい」を見つけてこそ、自分の存在価値を見いだすからだ。だから命名はそういう材料を調えるということになる。しかし、もっと大切なことは、命名に預けられた個性をどうやって引き出すかという親の引導である。
◆命名の大切なところは、命名におけるロゴスである。そのロゴスをちゃんとイメージ化することで、子供に願いをかけた世界を目標として実現する子育てというものが出てくる。だから、命名の運命式はそこから子供の将来のイメージが読み取られなければならないということだ。だから、運命式はその子の理想世界を表すマンダラとなる。
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