●鑑定一言コラム


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■鑑定一言コラム集は、姓名鑑定をする立場の者の姿勢や姓名鑑定に対する基本的な考え方をストレートに述べています。


皆様方の何かの参考にしていただければと思います。

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●姓名判断・鑑定・一言コラム 命名 改名 相性 全般

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■一言コラム 運勢編

◆占いにはいろいろとある。手相もそうだ。人相・骨相もある。四柱推命などもある。しかし、いずれも手法に過ぎない。人間の可能性というのは、自己の創造性を高めるところにある。その為の「よりしろ」と考えれば、占うことの大きな意味が出てくる。方向性をはっきりとすることと、それに向かって準備をすることなのである。そこに占いの真実性がある。だから、占いで「私の運命を教えてください」などというのは、「自己を創造すれば、運命は開かれます」と答えることにしている。


◆相性占いにはいろいろな要素が入り込んでくる。個人の持っている性格や様々な運勢もあるのだが、要は相手のあることだ。もちろん相手にも性格があり、それぞれ持っている世界が異なる。 そういう中で、どうやって交流するかということが本当の相性占いだ。だから、それは、状況やその時の課題によって変わるのだ。交流の仕方は一つではない。幾通りもあるのだ。変化に対応すること、それが相性占いの醍醐味なのかも知れない。


◆世の中占いが何と多いことか!サイトの数だけでもビックリするくらいの数がある。それだけ占いに関心が高いということでもあるが、実はそれだけ内容的に薄まってしまっているということもある。 でも、「ちょっとだけ」という何とも”くすぐったい心”が人にはあるものだ。そんなことが満たされるだけでも占いはいいではないでしょうかね。


◆占いで必要なものは何かというと、人を占うというよりは、人の成長を助けてあげるという観点が必要なのだ。占うというのは人の運命を裁くことではない。そんな運命の裁きは神様以外に権限はないはずだ。人の心の方向性を一緒になって見つけてあげるという為に、占うということがある。


◆辻占というのがある。ちょっとしたことをその都度その都度占ってみるのである。そういう占い菓子を昔は売っていたらしい。正月には、そういう辻占の遊びもあるくらいだ。人は面白いもので、そんな遊びはと思いつつ何かに自分を託したい夢を持っているものだ。意外と辻占に秘められた想いは、人の本気が隠されているかも知れない。


◆占うということには、大切なことがある。よくお金儲けで占い師になりたいという人がいるが、占い師は儲かる仕事なんかじゃないのだ。それに、占ってもらいたい人から見れば、儲かる動機の人に占ってもらったら「ぼったくられた」ということになる。占いは人に対する愛情があってこそ占うことができるのだ。愛情のないけばけばしい占い師がいたとすれば、そういう人には退場してもらいたいものだ。


◆占いというのは多くの人の心を引きつける魅力がある。それは、自分に関わりを持つからだ。自分の未来とか可能性などをどこかではかることができるからだ。そこのところが魅力なのだが、知るというのも怖いという心があるのも本当だ。しかし、考えようだ。知って早く対策を立てれば道が早く開かれることになる。占いはそういう道具だと思えばいいのだ。しかし、占いは未来を予言するものでは決してないことだけ言っておこう!


◆占いとは何だろうと思うのだが、人はどういうわけか不安になると占ってみたくなるものなのだ。占いは予言とは違う。予言は未来の可能性を予知するものだ。預言は人に対する神の言葉や意志を預かるものなのだ。だからこそ、それはメッセージになる。占いというのは、ちょうどその中間にあるようなものだ。だから預言もすれば、予言もする。その境界のあやふやのところが魅力でもある。


◆今回の参議院選挙で民主党で当選した虎退治の女性議員が公設秘書を決めるのに占い師に相談して決めたという。選挙に出るのもその占い師のお告げによったのだそうだ。占いは、人物評価をするのには必要であることは分かるが、自分が選挙に出るのが占い師のお告げということは、次元の違う問題だ。この民主党議員の見識では国政が危うくなる。


◆占いの魅力は何といっても知られざる一面をかいま見ることができるということなのかも知れない。相手を知るための必要なツールなのだ。ただ普段はそんなことは考えもしないで生活している。しかし、何か問題や課題があるとすぐに「あの人、ところでどんな人だった!」ということになる。人間というものは現金なもので、直接自分に関わりが出てくると、初めて真剣になるものだ。


◆占いというのはいつでも、微妙な立場にある。神様や仏様に相談を持ちかけるには、どうも自分がその立場に立てそうもない。で、知人や身内に相談するのはもっと嫌だ。等と考えると占いというのは、客観的に自分を見つめる一番いい方法だということに答えが出る。そして、自分の密かに思っている答えと占いの答えを照合して納得しようとしているのだ。答え合わせが合わなくても、自分の出発点をつくりたいというのも本当のところなのだ。


◆今日の占い等というものが毎朝テレビでやっている。ぜんぜん意味がないかというとそうでもない。ラッキーと思って出発すると、既に出発のベースが違っているということだ。最悪の結果になっているときには、それを自分がどんな風に受け止めるかということになる。これは警告だから、戒めにしようと思えば、そこに自然に価値が生まれる。もちろんこの手の占いというのは心理的な効果だけなのだが、占いの本質はあたっている。本格的な占いも出発のベースを整えるということは同じだからである。


◆鮎は魚偏に占うと書く。その昔神功皇后が釣りをして占ったところ釣れた魚が鮎であったというところから名付けられたともいう。または鮎は自分の縄張りを占有しているからこの字がつけられたともいう。その占うという字は、卜と口からなる。古代では卜は亀の甲羅をやいてひび割れの形で卜うのである。口は神への願文の入れ物であるから、意味としては占いは「神意を問う」ということになる。だから、占いの結果を良い意味で信じる人には、神が働くといえるのだ。


◆占うというのは、自分が何かを決めかねているときには、凄く効果を発揮する。但し、これには条件がある。「運を天に任せる」ことであるから、「人事を尽くしている」ということが大切なのである。そして、天命だと思って素直に実行する。そうすれば、方向性がしっかりと見えてくるようになるのだ。そうすれば、自分で舵を取ることができるようになる。


◆占いの中でも、家についてはおもしろい占いといえる。それは家が人間の住み易さを追求して、そこに当時の考え方価値観がプラスされて家の相という占いが誕生したからだ。だから、迷信のようで迷信ではないところがあるのが家相という占いだ。人の名前もその人の象徴といえる。その人自身は宇宙の象徴体でもあるから、名前というのは実は宇宙の法則と関係があるということがいえる。


◆占いをしていておもしろいことがある。それは誰もが占いに興味を持っていてその占いを積極的に受け入れようとしているということだ。実は否定する人も認めたくないという心理が働いているからこそ積極的に否定するのである。誰しも心の中に自分を知りたいという強い願望の根っこを持っているのだ。


◆拠り所・依りどころということがあります。ご神木というのがあります。それは神様そのものというよりは、神がそこにやってくる「依り代」ということです。巫女さんもそういう意味では「神の依り代」なのです。名前というものもそういう意味では「神の依り代」になります。名前を占う・命名する・改名する・姓名判断などは結局その人に寄り集う「神を占う」ということになるのです。自分の名前が善き「神の依り代」であることを願うばかりです。


◆インターネットで「占い」とキーワードを入れてみれば、あまたのわけのわからない占いサイトが顔を出す。それくらい、占いが人々の心の中に入り込んでいるのだ。誰しも自分の人生に自信と信頼を寄せているとは思えない。皆不安はあるのだ。だからこそ少しでも先読みしたいと思うのは人情だ。ならば遠くの未来を見るよりもすぐ先の自分を見た方がよいではないか?本当の占いは、自己の判断を正しくするための、自分探しなのである。


◆今年の一年を占うというように、春は出発を表します。その春は希望を意味しています。その春に今年を占ってみるというのは、重要な意味があるのです。出発ができるというのは、ある意味で過去を拭い去る(禊ぎ)ということでもあります。1年という四季の旅路に過去を捨て去り、希望の未来への思いをはせることは、自由人に与えられた特権です。


◆占いは道具である。人は道具を使うことで人としての地位を築き上げた。だから、道具を使えるかどうかが人としての価値を決める基本になる。占いも、道具なのだ。だから、占いをどうやって使いこなすかということが問題になる。道具としての占いは、自分のあり方と道しるべを示してくれるのかも知れない。 そういう意味では、占いが真理を伴えば釈尊のいわれた「法灯明!」になる。


◆占うというのは、心の中に自分がある程度の答えを予想しているのである。その予想に自信が持てないので、何かの確信を持ちたくて占いを求めるということもある。そういう様々な心理的な背景を持っているということだ。 それでも一つだけいえることがある。占いは法則性があるということだ。当然に人の心理にも法則性がある。ちょっとだけそういうことを理解すれば、行動や動きの予測ができる。それが自信につながることになる。 自分以外の大きな力と一緒に自信を持とうとする人は、最後は強い人になる。しかし、自分だけで強く生きているように見える人は、最後は不安になるのではないかと思う。それは、心のよりどころを持たないからだ。


◆昨日は関西テレビから電話があった。社名を変更したところで、成功した大きな会社はないか?ということだ。 そういう会社をネタに番組を製作しようということらしい。残念ながら、ここでは大手の会社から社名の依頼は今までにない。 というよりは大手が、社名の依頼をする方がおかしいのだ。 一つの仕組みができあがってしまっているときは、全体の運勢+社長の運勢が大きく作用するので、確立されたブランドとしての社名の運勢のみで力を発揮するのではない。 それよりもこれから起業するような人たちが、またはもっと会社を大きく発展させたいというような人たちの方が、創業者の運勢と社名の持つ器の運勢がマッチングしていくことで大きなチャンスをつかむことができるのだ。 創業の戦いというのは、ちゃんと運勢をつかめるかどうかということが大きな分かれ道になる。


◆迷いは誰にでもある。そんな時に頼りになるのは占いである。どうしてかというと、確かな根拠のある占いは、客観的になれるからである。それまではいろいろと人の感情や利害の意見が渦巻いている。そんな時にこそ、自分を素直に観ることのできる占いは、状況や事情圏を越えているからだ。占いも人生にうまく利用するということが賢い生き方だ。


◆占いは人を変えることができる。どうしてかというと、占うということによって自分の中に確認することのできることがあるからだ。だから、そのことを信じられる事実を自分が持つことになる。ここから人は変わっていけるということになる。人の心は不思議な作用を持っているのだが、信じるということがあらゆるもののエネルギーの根源のような気がする。だから素直な人は成長が早いというのも頷ける。


◆占うことは人生を変えることにつながる。占って終わりではないからだ。重要なのはその後のアドバイスだ。このアドバイスをしっかりと実行にうつせば様々な変化が起こってくる。そこまでいかない人が多い。それでは占ったことの意味が半減してしまうではないか?


◆占いをとして知ることのできるものは、「自分」ということである。でもこれを自覚できる人は少ない。どんなことでも自分にとっては手段だということだ。人生の目的を成就する手段として「占い」もその一つにすぎない。だから、占うということの情報をどう利用するかということに、人間の知恵がかかっている。


◆人を占うというのは、その人の可能性をいろいろと見いだすことができるものだ。その可能性は、善もあれば悪もあることになる。ただ占いではその方向性が善になるか悪になるかまでは判断できない。それはもっとその人の心の本質の問題になるからだ。そうなると先祖や霊的な背景が問題ということになる。


◆占いで思うことは、占うことで人が自分を理解するということなのだ。どっちつかずの状況が続けばストレスがたまるだけである。白と黒がはっきりすれば、そこから「決意」が生まれる。そうすれば次の方向性や対策も出てくる。だから、占うというのは、自分を決めることでもある。だから、ハチマキだ。これは知恵を遮断して行動をとることを意味している。知恵の迷いは早く遮断するのがいいのだ。


◆信じる主体を持っているということが人間の強さになる。占いを人が求めるときには、その信じる主体に対する自分の心が揺れているときが多い。人間という変化してやまない心を主体にしているからこそ、変わらないものを人は求める。占いには人変わらない心の真実を明らかにするという使命がある。


◆占いはいつの世でも、関心があるということだ。だいたい女性が関心を持って「信じる」という人が多く、男性は白い目で見て「そんな非科学的な!」と一蹴しながらも、気になってしょうがないというところだろう。人の世の中非科学的なことばかりなのを知っていながら、それを認めると自分の価値がなくなるかの錯覚を持つのかも知れない。世の中理と気の二重社会なのをわかっていない。


◆本来占いと霊感は別であるのだが、これをごちゃ混ぜにする人も多い。何故かといえば、占いも霊感も個人の未来や、生き方を言及するものだからである。しかし、霊感というのは鬼神に頼ることであり、占いはその人固有の経験と理論的な根拠を有するものだからである。ただいえることは鬼神に頼るのは、よほどその霊的な背景がわかっていないとリスクが大きいような気がする。


◆占いの世界では、運命を扱う人が多いのは当然だが、実は運命を占いをする人が決めてしまっているかのような錯覚を与えている。占いというのは地球儀の表と裏のような世界がある。地球儀は見る方向によっては、特定の地域しか見えない。反対側はブラックゾーンだ。占いというのは、誰でも見えてる表側だけではなくて、その裏側の世界は「こうなっているよ!」ということを見せてあげているのだ。だから、二つ合わせて地球は丸くなるということだ。


◆占うことと「侍る」というのは、どこか似ている。主人のパシリになるのは誰でもできる。それでは、何時か役に立たなくなればポイ捨てだ。「侍」は主人の意図を知っていなければならない。そういうことだ。占いも同じであって、相手動向を見極めるということが占いなのだから!そういう意味で、占いは相手の意図を知るという最も有効な手段だ。


◆占うということは、何かを予想することと結果的には同じである。予想するには、そういう想いを持つに至った動機やら経過がそこにはあるということだ。だから、予想は分析がある程度できる。でも占いは、そんな動機やら経過はないのである。占いにあるのは宇宙の法則性に基づいた可能性なのだ。そういう意味では可能性というのは、どんどんその規模を大きくしていくことができるのだ。予想は限定的範囲があるが占いは限りない拡がり、可能性をもっている。


◆占うというのは予測するという意味がある。今の時点の状況分析が大切だ。この時の内容が将来の方向性を決めることになる。ただその予測の方法が天文学を人生にあてはめるという方法を使っているということだ。安倍晴明の時代は、貴族が密かに陰陽寮の役人を抱えていたらしい。もちろん、自分の未来を占ってもらうためだ。


◆歴史上の人物を占ってみると、特に戦国時代の個性の強い人物像は面白くて仕方がない。何故かというといつも生死がそこにはつきまとっているからだ。そこには人の精一杯の姿が現れる。現代人にはそんな生き生きとした姿はなかなか見られない。歴史の人物にひかれる理由はそこにあるかも知れない。歴史を学びながら占ってみる価値は十分にある。


◆「このよをば我が世ぞと思う望月の・・・」と詠った藤原道長をはじめとした藤原家も栄枯盛衰はある。人の一生にも良いこと悪いことがあるのと同じだ。その時々の自分のあり方を見つめるというのも占いの大きな役割と思う。平安貴族が天文を人生に流用したのも一理ある。


◆久々に日記を書いている。この3ヶ月間はどこかで自分に挑戦をしていたときだ。そういうときだからこそ、様々なことを犠牲にしてもそれだけの価値があると信じている。占いというアイテムのどこがすごいかというと、自分や相手をちゃんと正面に見据えることができるということだ。いつでもどこでも真剣勝負のところがある。それだからこそ心のふれあいが生まれるのだと思う。


◆占って何が役に立つかというと、それは方向性が見えるということだ。ここがわからないから人は悩むのである。方向性というのは目的性につながる。自分はどうなるべきか?相手に何を望むのか?何をしたいのか?そういうことが自分で構築できればすごいではないか!


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