●鑑定一言コラム


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■鑑定一言コラム集は、姓名鑑定をする立場の者の姿勢や姓名鑑定に対する基本的な考え方をストレートに述べています。


皆様方の何かの参考にしていただければと思います。

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●姓名判断・鑑定・一言コラム 命名 改名 相性 全般

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■一言コラム 運勢編

◆手相、人相、占星術、四柱推命、いずれも昔の人の知恵の集積体だ。そういう昔の人の知恵に頼っているところがあるのが現代の科学技術だという面もある。知恵というのはソフトなのだから、現代という環境にマッチングするようにしなければ意味がない。もしそうでなければ、それは迷信になる。


◆結婚できない症候群!なんて言ったら怒られるが、そう思えるほど、婚期が遅くなっている。どうしてか?理由はいろいろあるが、自分の人生を託して共に歩むにたる男がいなくなってきているといった方がいいのかも知れない。夫婦は二人で一人前!そう考える人がいなくなったのも原因かも?いずれにしても占い運命式のバランスの悪い人が多い。


◆心に願い思うことは皆やましいことばかりである。それが人間の一面でもある。大自然の個々の生き物は自分のために一生懸命生きることで、調和が保たれている。人間だけは万物の霊長として、他のために生きることが問われている。占いで相性を観るということはそういう自分を発見することだ。


◆運勢とは招き寄せるものだ。ところが自分で運をつかみに行くと返って逃げられる。運の方から来たいといわせるにはどうすればよいか?ということになる。運の方が寄って来たくなる内容を身につけることだ。「それができたら苦労はしない?」。だから、努力する価値がある。自分の運命式の内容にあった努力をしてみれば、運勢とは”気”が合うことになるのだ。


◆運勢というのは、確かに波がある。そういうサイクルがあるというものだ。そのサイクルをちゃんとつかめば面白いことが出来るが、そのサイクルを外してしまうと、苦しまなければならない。ではそうしたらそういうサイクルを捕まえることが出来るのだろうか?それは自分が不遇だと思うときがチャンスなのだ。その時が内容を積む準備であり出発点なのだから。


◆運命は自分で決めること。じゃあ天命は何?「人事を尽くして天命を待つ!」という言葉もある。人事というのは自分の努力、それににより自分の運命が定まったということが天命なのだろう!だから、人は運命式にあった努力をすることで、天命というものがわかってくるのだ。


◆人の運勢は、人ひとりによって決められているわけではない。多くの人との関わり合いの中で運勢というものは決まっていく。ただ、そのときにどういう判断を下すか!人の支援がその人に集まるかどうかという違いだ。要は求心力を持てる人になれるかどうかということになる。運命式にそういうポイントのある人は、運勢がいいということになる。


◆運命を呪うとかいう人がいるが、運命そのものが自分のものだから、それは自分を呪うということになる。自分の運命に感謝するということの方がよっぽど健康的なのだ。厳しいときも楽しいときも苦しいときも、運命の中の試練であるならば、そこには乗り越える価値がある。


◆運命の女神というように、実は運命というのは、男の場合は女性が握っているし、女性の場合は男が握っていることが多いのだ。で、どういう相手が自分の前に現れるかというと、それは神の意志といいたいところだが、実は自分の持つ内容にひかれてやってくるのだ。だから運命は自分が呼び込んでいるということもいえる。先ずは自分は必ず成功できる。そう信じられる自分になることが必要だろう!


◆人の運不運を嘆くよりは、自分の運命に素直であった方がいい。自分を素直に見つめていると、次は何をすべきかが見えてくる。それが自然体ということなのかも知れないが、そういうところに運勢というのはやって来るのだ。よくいう時代に照準を合わせるということだ。その感覚をどこかでつかむことが大切だ。すると時代の方が自分を呼んでいることがわかるようになる。運というのはそういうものだ。運をよくするためには、時代や歴史を知ることだ。すると空気を読めるようになる。


◆何かを象徴することもそれは占いの一つと考えていいのかも知れない。自分を表す適当な動物がいれば、それはその人の持っている行動や価値観を言い当てているから、先を予測できるというものだ。そういえば人間始祖のアダムとイヴの時代には人類の未来を象徴するような「善悪知るの木」と「命の木」が生えていたという。これも人の未来を占う象徴であるが、その占いのように、人類歴史は善悪闘争の歴史となってしまった。でもまだ、「命の木」が残っている。


◆人の運命というものは不思議なものだ。人の心の願いとは反対にやってくる場合もある。自分では「どうして?」と頭が納得しないことが多い。しかし、心はどこかで「そうかも知れない」と思っている。一人の人間には自分の頭では計り知れない宇宙の合理性が働いているのだ。だから心に素直になることだ。そうすれば自分の運命が見えてくるし、その運命を越えていくこともできる。


◆人生の予定を決めてしまい、その通りに実践し、自分を貫くという意味では孔子はそういう意味では天才だ。しかし、予期せぬ苦労をしなければならず、弟子の育成をしながら諸国を廻ったのも事実だ。孔子のような天才でも自分の運命を予定することはできない。そのように、人生は予定されないものだからこそ、努力による運命の開拓という道が残されているのだ。


◆「占ってしんぜよう。黙って座ればピタリと当たる」などというのは、多分真っ赤な嘘だと思っている。そんなことになれば、誰も努力は必要なくなるからだ。それに、当たってもらっては困ることもある。聖書には預言者ヨナが、神に文句を言っていた。預言が当たらなかったからである。もし占いによって、その人が心を入れ替えて歩く道を変えたのであれば、その占いがはずれたことを歓迎すべきなのだ。それを持って善とする。


◆占うことは人間にとって、希望でもあるが恐れでもある。しかし、占わずにはいられないのが人間の性だ。自分自身を占うことは、自分自身への布石であり、道なのだ。だから、事前に様々な情報を集めることこそ、変化への対応の準備ができるのだ。準備なき者には滅びが待っている。


◆結婚する前には、納吉(のうきつ)の儀というのがあるらしい。「結婚を占ったところ吉と出たことを男家から女家へ知らせる」結婚はめでたいものだから、ちゃんと吉ですよと言うことを相手に知らせなければならないのだ。賢い人は、ちゃんと結婚する前に、相手との相性を見て対策をちゃんと立ててくる。離婚でもなんて考えるようになってからでは、もう遅いのだ。


◆占いというのは、どんな世界に行ってもあるから不思議だ。西洋には西洋流に!東洋には東洋流に!人は様々なものを利用しながら、相手を知るよりどころにしてきた。それは「知りたい!」という強い動機から始まっている。もっと愛したいこと、不安を解消したいことなど皆同じだ。だから占いは、そういう知るための材料を提供してあげる道具と考えればいいだろう!


◆卑弥呼は鬼道をしていたといわれている。鬼道については諸説あるのでよくわかってはいないが、隣の韓国では、巫女が鬼神の寄り代となって地上の子孫に現れるという。どちらにしてもあの世とこの世のつながりから国の行く末を占っていたに違いない。やはり占いの原点は先祖とのつながりにあると考えてよい。


◆昔の武将は、占いをうまく使った。先勝祈願をしていると、瑞兆が現れた。だからこの戦は必ず勝つぞと部下に信じ込ませる。そういうことをとっさの判断かも知れないがしてのける知恵があった。人の心が集結してこそ運勢というものは開けるのであるから、自分には神の加護があることを証明すればいいのだ。それを本気で自分も信じることができれば、占いの力は生きることになる。


◆占いと預言は似て非なるものだ。占いも預言も未来のことを題材にするのは同じなのだが、占いは可能性を表しているから、どうにかすれば道はある。しかし預言は、神の命令や言葉を預かるのだから、選択は二者択一である。悔い改めれば助かるが、そうでなければ滅びが待っている。いつでもクローズドクエッションは、答える方には厳しい選択だ。


◆運を招く人、不運を招く人、というのはたぶんいると思う。それは運がやってくる器を持っているということにもなる。だから、不運ばかりおこる人はどうもそういう器を自分がもっているのではないかと疑うべきだ。司馬遼太郎の小説では、日露戦争の連合艦隊司令長官に東郷平八郎が選ばれたのは、「あいつは昔から運がいい男だった。戦で負けたことがない」という理由からなのだそうだ。だから、器という運命式を変えてみるのも運を呼び込む道になる。


◆占いというのは、人間の未知なる探求心をくすぐるものだ。自分の知らない世界を知りたい。相手の知らない世界を知りたい。そういうスキルを与えてくれるものだから、皆が興味を持つ。しかし、どんな世界にも簡単に身につく技術というものはない。速成栽培などというものはないのだ。だから本物の鑑定をを求めるならば「餅は餅屋」に任せたほうが安心だ。


◆儒教では、易経が基本テキストになっていて、占いというのは国家存亡の重要な判断になっていた。それのみならず、その考え方が国造りに影響を与えたのである。占う方法が問題なのではなく、占いの持つ思想的な価値が人間や国家に大きな影響をもっていたというのである。安易な占いが氾濫する現代に、しっかりとした価値観を提示するのは「天使の占い」であると勝手に思っている。


◆占うということは別の味方をすれば、天意を知るということなのである。天意というのは、人間の人知を越えた見えない意志を知るということなのだ。だから、昔は占いには大きな権威があった。陰陽寮は歴をつくるお役所であったが、それは天意を知るための占いの役所だったのだ。現代では占いによって誰でも天意を知ることができるようになった。自分に対する天意をしっかりと理解するために運命式はある。


◆占いはただの占いで終わらない。これは言い換えてみれば「ただ知ればいいというものではない」ということになる。要は、知識として様々なことを、自分のことや相手のことを知っても、それで解決した気になってはいないか?知識は行ってこそ義とされるものだ。だから正しい占いは実践されてこそ意味がある。


◆占いというといまだに、「私いつまでいきられますか?」こんなことを質問する人がいる。占いで人の生死が分かるなら神様や仏様入らないということになる。いい加減な占い師ほど人の生死や運不運の不安を駆り立てる。もともと占いは今後の方向性を決めるためのものであり、それによって様々な準備をするためのものである。神や仏の領域を侵す占い師は言語道断だ。


◆占いというのは面白いということが最近見えてきた。占ってもらってかえってそれにとらわれてしまう人がいるのだが、占いはそれをどのように自分が利用するかということが基本なのだ。ちょうどコンサルティングやカウンセリングを受けるのと、それからお住さんのありがたいご講話と似ている。話で満足してしまう人がいる。そうではないはずだ。実践した結果を出してみると自分が面白くなる。


◆占いに道を求める人が多くいるのは、それだけ占いが人々の心に受け入れられている証拠だろう!それは、理屈では分からないが見えない世界に対する恐れや、何かのパワーを心が感じているかに違いない。心理学が人の心を読み明かそうと躍起であるが、人の心というのは物理的な概念を越えているから、心は神秘なのだ。だからこそ、占いを通して神に尋ねるという心境になるのだ。


◆世の中の占いを見ていると、心理学をうまく使った占いの人がいる。「おうむ返しの法」である。相手のしゃべったことを繰り返ししゃべっていると、「この人はよくあたる」ということになる。本当の占いは予言でもないから、相手の心の隠れた部分を解放してあげることにある。


◆占いでは何を求めているかということが、とても重要になる。要するに知りたいことがはっきりしていなければならない。そこには、良いことも悪いことも受け入れる度量が必要になる。要は自分をニュートラルにしていなければならないのだ。そうしていてこそ、占いの結果を自分にうまく取り入れることができるのだ。そこでは占いに吉とか凶などということにとらわれることこそナンセンスなのだ。


◆この前おもしろサイトを見つけた。偶然なのだが、韓国の方と結婚した日本人の女性のブログである。ここでは、生きた文化論が感じられた。生活の中から風土の違いがわかるのである。それによると、韓国は超外見の社会らしい。女性の6割以上が何らかの整形をしているらしい。ほくろだってどんどん取っちゃう。ほくろだって人の相を表す重要なアイテムなのに、外見だけの整形って言うのは、占いから見ればかえって運勢を悪くする可能性がある。


◆占うことは人の安心を引き出すという効果がある。人間は誰かに認められたり、評価されたりするとそれだけでわかったようなつもりになってしまうという心理が働く。占いは心理学とは違うのだが、そういう心理学的な効果もあるのである。でも、占いは心理学とは違った人そのものを観る”相”学なのである。


◆占いというのは、占う人の人間性がとても大切になります。人の内面の世界を扱うことになりますから、そういう意味では、相手に対するキャスティングボートを握っているからです。「人を愛する」そういうことを知っている人でないと、占いは単なる脅しにしかなりません。


◆占って欲しい人の気持ちを考えると、占いは真剣に取り組まざるを得ない。何故ならば、占いに申し込むというのはコンピュータ占いのように遊び半分ではないから、それは真剣勝負になる。一つの判断基準を相手に提示するものだからだ。それによっては人生の方向性が変わるかも知れないのだ。何しろ占いは太古の昔国家の方向性までも決めていたというくらいだから、昔から人間は神秘の力を信じていたに違いない。今でもその力は衰えていない。


◆占いではよくお金の占いがある。皆さんお金が儲かるようになどという占いばかりなのだが、儲かることだけを考えている人は結局は損をするのではないかと思う。お金というのは、本来流通することを目的にしている。お金を物の象徴だから、物というのは流通してこそ全ての人に恵が行き渡るのである。その為のお金なのだ。だからお金の使い方を考えた上でのお金の集め方が必要になる。呼吸と同じだ。


◆占い全般を見ると、どこかにお呪い的な要素がある。実は占いというのはそういう使い方をしても意味がないのだ。何故ならば、占いは情報だからだ。ひとつの可能性のある予測と考えた方がいい。だから占ってみて自分の行動の材料とするのが正解だ。


◆占いの中には、水晶玉を使ったり、カードを使ったり、昔ながらの筮竹を使ったりといろいろだ。どちらにしてもその中から何かをつかみ取って、判断するのだろうが、占われる人には分からないことが多すぎる。そういわれればそのような気がする程度だ。現代の占いは、占ってもらう人がちゃんと分かるような言葉で根拠を示さないと占いの価値がなくなってしまう。


◆占いというのは、パズル解きのようなところがある。運命式というその人の宇宙がどんな結びつきをしているか、どんな作用を現しているかを見つけなければならないからだ。しかしどんなに複雑のように見えても、そこにはちゃんとした人間の法則が見え隠れする。占うというのは、もつれた糸の端緒を見つけるようなものである。


◆今年は辻占からはじまった。一つめの菓子には「よいお便りがおくれます!」 二つめの菓子には「望みごと必ずかなう!」三つ目の菓子には「食べるに不自由なし!」ということが書かれてあった。 辻占というのは、面白いものだと思う。神社のおみくじよりも好きだ。何故かというと、遊び心がいっぱいだからだ。それに、お菓子としてお茶をしながら遊べるというのは、なかなか心憎いではないか? しかし、どんなときでも遊べないのが「命名」である。この依頼は、人の一生と誕生の瞬間の全ての霊性がそこに宿るような気がするから、いつも緊張して手が抜けない。だからこそ、大きな喜びもそこにある。 改名というのも命懸けだ。1年をリセットするのではなくて人生をリセットするのだから、ここでも命と命のぶつかり合いだ。そういう戦いを使命としてきた1年であった。 相性もいろいろとあった。人の縁を扱うことの難しさや素晴らしさを知らされもした。そこに人の真実の生き様を見た1年であった。


◆2007年はやはり「金を振り分けるように、銀を振り分けるように」全ての善と悪が別れてお蔵に入ったことになる。 これからが問題だ。だから、様々な問題点が出て「偽」がクローズアップされてしまった。しかし、お蔵に入った「真」が本当に問題なのである。この真をどういうように設計するかという問題が検討されないままになっている。もう一度、2007年の「真」が何かを考えてみる必要がある。あと1日だ。


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