室町幕府では、実はこの足利義詮がうまく政治を行ったからこそ足利政権は安定の道を歩き始めるのです。
更に、織田信長から豊臣秀吉へと続く政権では、豊臣秀吉が結局は政治に失敗をしたために秀頼政権は滅んでしまったといわざるを得ません。
徳川幕府では、第二代将軍の徳川秀忠が優れていたからこそ、徳川幕府は安定の道を歩き始めたのです。
そのように考えていくと、第二代将軍というのは、その政権の流れを左右する運命の申し子ということがいえそうです。
そこで、運命の申し子「足利義詮」の運命式をみてみましょう!
<足利幕府第二代将軍・足利義詮の運命式>
27 14 27
20 40 20
33 26 33
1330年に生まれ、足利尊氏の第3子にして嫡男。1367年37才にして没する。
足利義詮は、幼少の頃から戦乱の巷におかれた境涯でした。
父親の高氏が伯耆の国で挙兵をした後醍醐天皇を討つために幕府方の総大将として出陣したときに、鎌倉方の人質として鎌倉に留め置かれたのです。
父親が今度は幕府に反旗を翻すと、鎌倉を脱出し新田義貞軍に合流し、鎌倉幕府を陥落させました。そして父尊氏が建武の新政から距離を置いて、離反するようになると、南朝方と戦い、関東を主に統治するようになりました。
足利氏の執事である高師直と尊氏の弟の足利直義の対立が激しくなり直義が失脚すると、鎌倉から呼び戻され、直義に変わり政務を任せられるようになったのです。
次には父親と共に南朝方に降伏し、(足利氏は北朝方)南朝方に元号などを統一する南朝と北朝の合流する和議が提案されるが、南朝方の武将が京都に攻め込んだためにこの和議は破棄されて義詮は北朝の後光厳天皇を三種の神器なしで即位させたのです。こうして、義詮は尊氏亡き後に1358年征夷大将軍に任じられました。
その後も、南朝方の武将と北朝方の武将の戦いの狭間で、常に戦乱の中に身を置いてきたのですが、徐々に南朝方と北朝方の武将達の融和が図られ有力な武将であった大内氏・山名氏らが帰参し、政権は安定をするようになります。
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