それは源氏の統領の血をひくのですから、当然皆がそう思ってもおかしくありません。しかし、当の源義經はなかなか自分のカラーをしっかりと持っている人でもあります。
そこが、兄頼朝と価値観の違いが出てくるようになったのだと思います。頼朝は、関東武士団という背景を持ちながら、知恵によって新しい体制を出現させようと考えているのですから、そういう政治的歴史的な事情や背景をよく知らない源義經は、旧態依然たる貴族社会の中での価値観を守ろうとします。
「壇ノ浦で捕らえた平宗盛父子を護送して、5月7日京を立ち、鎌倉に凱旋しようとした。しかし義經に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さなかった」
この時に、頼朝に宛てた書状が物語っています。
(wikipediaより)
「生まれてすぐ父が亡くなり、母の懐に抱かれ大和に赴いて以来、片時も心の休まる事は無かった。諸国を流浪し所々に身を隠し身分の低い者に仕えた。しかし機は熟し、平家一族の追討の為、上洛し木曽義仲を誅し、平氏を傾ける為、或る時は岩に馬を走らせ命を落とすことを顧みず、或る時は大海に風波を凌ぎ身が海底に沈むのも痛まなかった。甲冑を枕とし戦ったのは、亡父の憤りを休め、宿願を遂げるが為に他ならない。五位検非違使に補任された事に他意は無く、許されれば必ず一門と子孫を栄えさせる」
それは貴族社会を中心として武家社会は単なる家人の扱いにしかすぎないという価値観であり、自分は武士貴族であるという自負になるのでしょう!
源義經の運命式をみると、そういうカテゴリーから抜け出せないでいることが分かります。
ここに、平家が滅んだ後の朝廷との権力闘争が分からない悲劇が源義經を巻き込んでしまったのです。
■源家滅亡は義經の怨念のなせる業か?
ここで、あらためて源義經の運命式をみてみよう!それから、頼家、實朝の運命式を並立して表してみよう。何かが分かるかも知れないです。
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