それをあえて、あの深慮遠謀家・タヌキの家康が選ぶにはそれなりの理由があったはずだ。
家康は貞観政要(じょうがんせいよう)という唐の太宗時代の(政治問答集)を読んでおり、その中に「守成は創業より難し」という一文がある。当然家康としては以下に政権を安定的に次世代に渡せるかということを悩んでいたに相違ないのである。
ここに守成となる2代目の条件というものが出てくる。
要するに体制ができている中で、新しく何かを創業するというよりは、創業者の業績をベースにして、これを改相続発展させていくかという手腕が問われるようになる。そこには、もちろん家臣が納得する2代目でなければならない。
この時代血筋は重要な要素だ。秀忠の母親は西郷の局で三河以来の名家である。誰も依存はないだろう!
そういう意味では、自分の意見や自分の主体性、自分の価値観というよりは創業者の視点でものごとを考えて、柔軟に環境に適応し、何よりも智恵が必要になる。そのことから考えると、秀忠という人物は守成型のリーダーとしては、最適であると考えてよい。それに、秀忠には幼少から寝食を共にしてきた側近達がいて、彼らが実際には手足となって力を発揮することになったからである。
自分が創業者のような振る舞いをすれば、それは必ず創業以来の家臣達が家康公と比較をして批判勢力となってくる。だから常に創業者の影であるということが必要になる。それでいいという性格的な要素、賢さ、難しい周囲の政治勢力をまとめられる柔軟さなど守成に与えられた任務はあまりにも険しいといえよう。
秀忠は、それを難なくこなしていったということは実に守成の名将といっていいだろう!
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