側室に迎えた。お豊の方は教養が高く、歌道をたしなんだという。しかしお豊の方以外に側室を迎えることもなく、お豊の方との子は二人よりも早く死去したために結局、治憲の血筋は残らなかった。
35歳の若さで隠居し、実子がいたのに家督を前藩主・重定の実子・治広に譲ったのは、重定が存命中に治広に家督を継がせることで養父を安心させたいという鷹山(治憲)の心遣いだったとされる。
煙草を愛好していた。また、酒はあまり飲まなかったが、薬用酒はときどき飲んだという。
有名な「生せは生る 成さねは生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり[5]」(『上杉家文書』国宝の抜粋・上杉鷹山書状。弗爲胡成(為さずんばなんぞ成らん、『書経』太甲下篇)に由来)の歌は「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられた。
米沢藩中興の祖である鷹山は現在の米沢市民にも尊敬されている。その例として、他の歴代藩主は敬称なしで呼ばれることがあっても、上杉鷹山だけは「鷹山公」と「公」という敬称を付けて呼ばれることが多い。
当時、米沢藩で奸臣と見なされていた直江兼続の200回忌法要に香華料を捧げたという。このことから、20世紀に入り一転して兼続が称揚されるようになると、鷹山が兼続を再評価したとされ、鷹山の施政の多くは兼続の事業を模範にしたものとされた。
米沢藩では宝暦の飢饉において、多数の領民が餓死、あるいは逃亡し、宝暦3年(1753年)からの7年間の間に9699人の人口減少を経験している。鷹山(治憲)の治世において起きた天明の大飢饉においては、天明3年からの7年間に4695人の人口減少に食い止めており、鷹山(治憲)の改革は実効を上げていた事がわかる。ただし、改革のお陰で飢饉の時も餓死者が藩内から出なかったという評判は、明らかに誇張である。
鷹山(治憲)の推奨したウコギの垣根も、若葉は食用で苦味が有るが高温の湯や油で調理して現在でも食べられており、根の皮は五加皮と言う滋養強壮剤になる。