活を改められなかった前藩主・重定は藩土返上のうえ領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであった。
★鷹山のやったこと
新藩主に就任した治憲は民政家で産業に明るい竹俣当綱(まさつな)や財政に明るい莅戸(のぞき)善政を重用し、先代任命の家老らと対立しながらも自らこれまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行って土を耕し帰農を奨励し、作物を育てるなどの民政事業を行った。
天明年間には凶作や浅間山噴火などから発展した天明の大飢饉の最中で東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め自らも粥を食して倹約を行った。また曾祖父・綱憲(4代藩主)が創設し後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。
安永2年6月27日(1773年8月15日)に改革に反対する藩の重役による改革中止と改革推進の竹俣当綱派の罷免を強訴した七家騒動が勃発したが退けた。これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。
★上杉家の血筋まで配慮
天明5年(1785年)に家督を前藩主・重定の実子で鷹山(治憲)の養子であった上杉治広(鷹山が養子となった後に生まれた)に譲り隠居するが逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導した。隠居すると初めは重定隠居所の偕楽館に、後に米沢城三の丸に建設された餐霞館が完成するとそちらに移る。
享和2年(1802年)、剃髪し鷹山と号する[2]。この号は米沢藩領北部にあった白鷹山(しらたかやま:現在の白鷹町にある)からとったと言われる。