文政5年3月11日(1822年4月2日)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に死去。享年72(満70歳没)。法名:元徳院殿聖翁文心大居士、墓所:米沢市御廟の上杉家廟所。始め上杉神社に藩祖・謙信と共に祭神として祀られたが、明治35年(1902年)に設けられた摂社松岬神社に遷され、現在に至る。
官歴 [編集]明和3年(1766年)7月18日 - 従四位下弾正大弼に叙任。
明和4年(1767年)4月24日 - 家督相続。同年12月16日、侍従兼任。
天明5年(1785年)2月7日 - 隠居。同年同月11日、越前守に遷任。侍従如元。
●伝国の辞
伝国の辞(でんこくのじ)とは、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した3条からなる藩主としての心得である。
伝国の辞は、上杉家の明治の版籍奉還に至るまで代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承された。
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
右三条御遺念有間敷候事
天明五巳年二月七日 治憲 花押
治広殿 机前
■上杉鷹山を現代にたとえれば!
ここで上杉鷹山公の運命式をみながら、どうしてこんなすごいことができたのかということを考えてみたいと思います。そうすることで、上杉鷹山公を通して運命式に働く先祖と本人がすごいことができた理由をみることができます。
同時にそこで働いた家臣達の運命式をみれば、ものすごい危機の中にあって何故そこまでできたのかということが、私たちにも少しはわかるのではないかと思うのです。
|