◆このときの師匠が細井平洲です。
尾張の国平洲(ひらしま)村の農家に生まれたものの幼くして学問に励み、16歳のときに京都に遊学するが、当時有為な学者はほとんど江戸幕府や諸藩に引き抜かれていたので失望し帰郷。そのとき尾張藩家老竹腰氏家臣の子で折衷学派の中西淡淵が名古屋にも家塾の叢桂社を開くことを知り、そのまま師事する。
後に中西の薦めにより延享2年(1745年)に唐音研究のために長崎に遊学。宝暦元年(1751年)、24歳の時、江戸へ下って嚶鳴館(おうめいかん)という私塾を開き、武士だけでなく、町民や農民にもわかりやすく学問を広めた。また、西条藩・人吉藩・紀伊藩・大和郡山藩等の藩に迎えられた。西条藩からは10人扶持を支給されている。
宝暦13年(1763年)に、上杉治憲(後の鷹山)の師となる[1]、治憲は後に米沢藩主となり、米沢藩が財政再建を成功させたことは有名である。
<細井平洲の運命式>
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細井平洲さんは、信念と知恵の人であるといえます。それに創造性の強い人物ですが人に対してはそのつながりを大切にします。
相当な学問に裏打ちされた信念を持っていますから、この人に師事したということは、鷹山(治憲)にとっては幸運であったといわざるを得ません。
「學思行相須つ(がくしこうあいまつ)」(学び、考え、実行 することの三つがそろって、初めて学んだことになる)という言葉を残した。 |