鷹山公(治憲)は米沢藩を継いだときに、将軍家治公から「治」の1字を賜って、治憲と改名している。ここにも、鷹山公(治憲)が強運であることの証明がある。
もし、改名していなければ、改革は散々な目にあって植えすぎ米沢藩は解体の憂き目にあっていたであろうということです。
上杉治憲の名前は、一言で言えば、信念と人扱い、人を組織する天才。それに無理をしない戦略と作戦家ということがいえます。また、人に対して優しいということがいえます。だからこそ、6,000人の家臣を解雇せずに、20万両(260億円)の大借金を返済することができたということだと思います。
この運命式から鷹山公(治憲)の行った改革が、実は運命式に顕れているということです。それを、業績から説明しましょう!
(参照:http://inoues.net/club2/yonezawa_m.html)
◆そこで、信念の人というエピソードは、次からもわかると思います。
自らこれまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行って土を耕し帰農を奨励し、作物を育てるなどの民政事業を行った。
◆作戦家の鷹山公(治憲)
「自助」の実現のために、鷹山(治憲)は米作以外の殖産興業を積極的に進めた。寒冷地に適した漆(うるし)や楮(こうぞ)、桑、紅花などの栽培を奨励した。漆の実からは塗料をとり、漆器を作る。
楮からは紙を梳き出す。紅花の紅は染料として高く売れる。桑で蚕を飼い、生糸を紡いで絹織物に仕上げる。鷹山(治憲)は藩士達にも、自宅の庭でこれらの作物を植え育てることを命じた。
武士に百姓の真似をさせるのかと、強い反発もあったが、鷹山(治憲)自ら率先して、城中で植樹を行ってみせた。この平和の世には、武士も農民の年
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