貢に徒食しているのではなく、「自助」の精神で生産に加わるべきだ、と身をもって示したのである。
やがて、鷹山(治憲)の改革に共鳴して、下級武士たちの中からは、自ら荒れ地を開墾して、新田開発に取り組む人々も出てきた。家臣の妻子も、養蚕や機織りにたずさわり、働くことの喜びを覚えた。
◆人扱い・組織作り
「互助」の実践として、農民には、五人組、十人組、一村の単位で組合を作り、互いに助け合うことを命じた。特に、孤児、孤老、障害者は、五人組、十人組の中で、養うようにさせた。
一村が、火事や水害など大きな災難にあった時は、近隣の四か村が救援すべきことを定めた。貧しい農村では、働けない老人は厄介者として肩身の狭い思いをしていた。そこで鷹山(治憲)は老人たちに、米沢の小さな川、池、沼の多い地形を利用した鯉の養殖を勧めた。やがて美しい錦鯉は江戸で飛ぶように売れ始め、老人たちも自ら稼ぎ手として生き甲斐をもつことができるようになった。これも「自助」の一つである。
さらに鷹山(治憲)は90歳以上の老人をしばしば城中に招いて、料理と金品を振る舞った。子や孫が付き添って世話をすることで、自然に老人を敬う気風が育っていった。父重定の古希(70歳)の祝いには、領内の70歳以上の者738名に酒樽を与えた。31年後、鷹山自身の古希では、その数が4560人に増えていたという。
天明の大飢饉をしのいだ扶助・互助。藩政府による「扶助」は、天明の大飢饉の際に真価を問われた。天明2(1782)年、長雨が春から始まって冷夏とな