長岡藩は禄高を7万4千石(実録は10万石)から2万4千石へと大幅に減らされ、士族の中には食事も粥(かゆ)ばかりで、それにも事欠く家もあった。
明治3(1870)年春、長岡藩の支藩である三根山藩から、本藩の窮状をみかねて百俵あまりの米を送ってきた。小林虎三郎は、計画していた国漢学校の創設にこの米を充てたのだった。困窮していた藩士たちはこの米が分配されるものと期待していたはずで、それを押し切っての決断だった。
この事績は、戦時中に山本有三が戯曲『米百俵』を発表して、世に広く知られることになった。
★山本有三について
山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年7月27日 - 1974年1月11日)は、日本の劇作家、小説家、政治家である。本名は山本
勇造(やまもと ゆうぞう)。日本芸術院会員、文化勲章受章者。
戦後、貴族院勅選議員、参議院議員などを歴任した。
■3.「食えないから、学校を立てる」
山本有三は、その時のやりとりをこう描いている。
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三左衞門 聞くところによれば、このたびご分家、三根山藩のご家中から、当藩の藩一同に見まいとして送ってきた米を、おまえ様はわれわれに配分せぬ意向とあるが、それは果たして、まことのことでござるか。
専八郎 しかも、その米の売り払い代金をもって、学校を立てるご所存とうけたまわった。たしかにさような事、従五位様(藩主、牧野忠毅のこと)に申し上げるつもりか。しかとした返答をお聞きしたい。
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これに対して、虎三郎は意外な返答をする。