■4.国漢学校の創設
虎三郎の考え通り、明治3(1870)年6月、国漢学校が新築された。明治新政府により東京で小学校が開設されたのが、同年同月であり、虎三郎の先見の明が窺われる。学校長には虎三郎自身が就任した。
新築された学校は、平屋建てで教室が6つ、さらに武道のための演武場も備えるという、かなりの規模であった。建設費や武具、書籍を含めて4百両かかったとされているが、米百俵の代金は250両ほどであり、不足分は藩から拠出されたものと思われる。藩の財政も破綻状態にあったはずで、それでも学校に資金を投入したのは、虎三郎の決断であろう。
この国漢学校には、二つの特徴があった。第一は、士族ばかりでなく、町人や農民の子弟も入学が許された点である。そのため、最初からかなり多くの志願者が出たようだ。これは平民教育にも力を入れていくべきだ、という虎三郎の考え方に依っている。
第二に従来の藩校では漢学のみを教えていたのに、ここでは国学・国史も教えられた。これが国漢学校の名前の由来である。国史と言っても、それまでは漢文による大日本史や日本外史しかなかったので、虎三郎は自ら『小学国史』全12巻を編集した。さらに世界地理や国際事情、哲学、物理学、博物学なども教育科目に取り入れた。今後の日本が必要とする教養と知識を持った国民を育てようという考えである。
■5.国家の強弱は、人民の教育・啓蒙で決まる
虎三郎は、ドイツの学校制度を論じた『徳国学校論略』の序文で、自らの教育思想を明らかにしている。
ここでは、まずドイツ(プロシヤ)の学制に注目した理由として、ドイツが東にオーストリア、南にフランスを破り、強国のイギリスやロシアもドイツを恐れているとし、その力の根源は、ドイツがさかんに学校をおこし、教育を重視したからだとしている。
ドイツと対照的に弱いのが、アジアの老大国たる中国で、人口では4億と
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