世界の三分の一を占めるのに、アヘン戦争に敗れて、欧米列強に領土を侵蝕されている。
中国も欧米も、民族こそ違え、人間としては同じである。それが、国家の強弱において天と地ほどの差ができてしまったのは人民に対する教育・啓蒙の差である、と虎三郎は説く。
虎三郎の教育とは、科学技術だけではない。学校創設の10年ほど前に著した『興学私議』(学問を興すことに関する私の議論)では、「学問には『道』と『芸』が必要である」と述べている。人としての生き方を考える『道』と、科学技術や実務を学ぶ『芸』とが両輪となって、国民一人ひとりが、強く正しい生を送り、そのような国民が、強く正しい国家を作るのである。
虎三郎は若かりし頃、江戸で佐久間象山の門下に入り、吉田寅次郎(松陰)とともに「両虎」と並び称せられた。その象山が「東洋の道徳、西洋の芸術(技術)」と唱えた思想を、虎三郎は継承しているのである。
このように、国を興すのは人民に対する教育であり、それには「道」と「芸」が必要だとする考えによって、虎三郎は農民や町人の子弟も入学させ、また漢学だけでなく、広く国学や洋学も取り入れたのだった。
■6.近代日本の発展に貢献した人材を輩出
この国漢学校は、やがて官立の坂之上小学校となった。また後に併設された洋学校、医学局が、それぞれ長岡中学、長岡病院に発展した。
この国漢学校、坂之上小学校、長岡中学から、人材が輩出していく。国漢学校創設時の生徒だった渡辺廉吉はオーストリアに渡って法律、政治学を学び、伊藤博文のもとで帝国憲法の制定に参画した。
日本で最初の医学博士・小金井良精(よしきよ、虎三郎の甥にあたる)はドイツで解剖学と組織学を学び、帰国後は東京帝国大学医学部教授として、 |