<徳川家康>
28 17 27
28 38 13
35 21 24
ここで家康という名前に改名したことが、天下への大きな道をたどることに結果的につながった。どういうことかというと、創業というのは、時の政治や軍事状況にどのように適応して自分の能力を発揮できるかということである。そう考えると、当時の松平家の置かれた立場では、もし主体性を発揮する強い運命式であったら、または頑固で守り型だけであったら、または誰にでも相対するような柔軟型の運命式の名前であったならと考えると、いずれも当時の状況には合わなくなり、いずれ滅ぼされる運命と考えてよかったかもしれない。滅ぼされないまでもどこかの一部賞にとどまっていたと考えていい。
そこで、当時は弱小の松平家としては周りに強大な織田家、そして衰えたりとはいえ今川家も健在だ。その間にはいって、どうするかという辛い選択を迫られることに変わりはないのだ。それは、父親の広忠の代から何も変わってはいない。
変わっていることとすれば、それは強力な団結力を誇る三河武士が育ったことである。その中で、家康と改名した名前は、やっぱりタヌキジジイと呼ばれるにふさわしい名前ということが分かる。それは、相手の心理まで見抜く、考えて考え抜く戦略と作戦家の軍師としての顔である。
家康の強みは、どんな境遇にも耐えてきた団結力と武力を持った家臣団の存在である。この強みを生かすには、自分が軍師のように戦略を立てるしかないのである。これができる名前がついたということは、織田側に汲みするようになって、しっかりと自分の足場を築き、勢力の拡大を図るように織田側との戦略的な交渉が成り立ったということだ。それが出来る軍の力はあったということになる。