そして家康は、信長、秀吉とトップの陰に隠れながら、次の次を狙う戦略を描き続けてきた。それが家康流の創業ということになる。無理をしないでそれが出来たのもこのタヌキの運命式だからである。
いちばんいい例が天下分け目の関ヶ原の戦いである。この陣形は誰が見ても勢力図からいっても東軍の敗北である。ところが西軍が負けてしまったのである。何故かといえば、西軍に裏切りが続出したからである。
それは、関ヶ原が始まる前から家康の戦は始まっていたのである。各諸将に手紙を書きまくっているのだ。家康側につくような懐柔工作がどんどん進んでいたのだ。だから、家康という軍師には自信があったということになる。
最小限の犠牲の戦いで勝つということを家康はもくろんでいたのだ。それが出来る家康の運命式である。複雑な政治状況の中で、トップに立つということを天は名前という武器を用いて、平和をつくりだしたと考えられないこともない。
それを考えると創業者の名前の運用の仕方、または、状況に応じた名前の改名は実に重要な出来事と考えられる。名前で天下をとるということは十分いえるのだ。
★2代目・徳川秀忠
25 17 24
22 32 10
29 15 18
徳川秀忠の評価は歴史上分かれるところである。凡庸な2代目、武将としては三流、為政者としては及第、等々諸人は好き勝手なことをいっている。関ヶ原の遅参にしても、本当のところは分からない。事情は当事者しか分からないだろう!
しかし、結果論的に家康が秀忠を2代目として選んだ見識眼は外れてはいなかったということだ。それでは家康はどうして秀忠を選んだのか?
関ヶ原に遅参はするは、武将としての評価は低いでは、多くの諸将がついてくるかという問題があったはずだ。