3、信玄は、幼児期から母大井夫人の深い配慮の元に、儒学、禅学などを中心とした学問、政道などの基礎知識を岐秀元伯に教育され、薫陶を受けたのである。
この岐秀元伯は、母大井夫人によって招かれたのである。
4、2つに引き裂かれた信玄の戦略(勝頼の諏訪家相続と義信の謀反)
1)武田家代々、嫡男相続の伝統がなく、4代前の信昌の頃より偏愛によって跡目争いが続き、信玄も父信虎を追放している。
2)信玄が父信虎追放にあたっては、戦略上の問題があった。信虎は駿河と組んで京都を目指した。しかし、家臣団は厭戦気分から小国乱立する信州を目指そうとした。
3)信玄はこれを利用し、家臣団と手を組んで信虎を追放した。
4)信玄は諏訪地方を手にいれるため、先ず謀略を用いた。諏訪頼重に妹を嫁がせ、縁戚関係を結び、安心させて宴席に招き、これを殺害した。そして、残された諏訪料人を側室にし、そこに生まれた子を諏訪家の跡目として、諏訪一族を取り込もうとした。(勝頼誕生)
5)信玄夫人は、京都の三条家より嫁いできた。このことは、信虎が室町幕府に代わって天下に号令するということを実現する戦略の一つと思われる。
6)駿河との同盟を重く見て、嫡男太郎の嫁は、今川義元の娘を迎える。
7)しかし、信長の台頭によって義元が討たれたため、信玄は駿河経営に乗り出そうとした。そこで一時的同盟を計ろうとし、信玄と信長は手を結び、勝頼の嫁に信長の養女を迎えることになった。
8)妻の敵、信長の養女を迎えることに当然太郎は反対した。しかし、太郎には今川家という後ろ盾もなく、応援する家臣団もいない。武田家の家臣団は皆信玄が押さえていた。一部の不満分子がいるだけである。戦略的に今川はもう必要なくなったのである。そして信玄は勝頼を偏愛した。
9)後ろ盾を失い焦っている太郎、その上初陣の信州伊那の地まで勝頼に取られてしまった。(信玄としては、信州の地は諏訪の血を引く勝頼のものなので、当然の処置)こうして太郎は父憎しの方向へ傾いていったのである。このように太郎の心情に、母三条夫人の嫉妬と太郎の妻の嘆きがついてまわるのである。
10)悲惨は、太郎が父の大目的と大戦略を理解し、これを相続することに勤めなかったからである。また、信玄の偏愛がこれに輸をかけ、親子が離反するようになったのである。信玄がどんなに優秀でも基本となる相続の儀式に失敗すれば、内部崩壊をしていかざるを得ないのである。
11)しかしながら、信州というカードを信玄が使ってしまった以上、たとえ太郎が相続に成功しても、勝頼との戦いは免れなかったであろう。
12)信玄の間違いは、天倫に背く行いをして諏訪頼重を謀略し、その娘をめとって子を宿したことにある。これによって、天は信玄を滅ぼさざるを得なかったのである。 |